『精神現象学』ラジオ講座の書き直し

 今回発表した「ヘーゲル『精神現象学』の迷宮を歩く――非理性的時代に理性を求めて」は、私が昔、いわゆるミレニアムと呼ばれた西暦2000年にラジオ講座で話した「現代思想の最前線としてのヘーゲル――『精神現象学』の新しい読み方」というのが大元の原稿です。そのラジオ講座というのは「慶應義塾の時間・『三色旗』」という短波放送でした。私は慶応大学とは縁もゆかりもない人間ですが、石井敏夫さんという慶応の先生とドイツ語学校で同じクラスになったのが縁。石井さんは「メーム・ド・ビランの研究をしている」と言うので、ビランにもフランス思想にも関心のなかった私は困ったのですが、同い年ということもあり、個人的には意気投合して、しばらく後にこの番組で話をしないかと誘われました。私に声をかけたのは、おそらく話し手がいなくて困っていたのでしょう。ある口の悪い人の言うところでは「いまどき〔…当時ですよ〕短波放送なんて、聞くのはマグロ漁船の船員くらい」ということでしたが、私は『どくとるマンボウ航海記』を愛読した記憶もあり、マグロ漁の合間にヘーゲルを聞いてもらうのもいいかもと思いましたし、ちょうど当時『精神現象学』について自分の考えを短くまとめてみたいという欲求もあって、お引き受けした次第。そのときの問題意識は当時の場番組案内を載せておいたのでご覧下さい。
この原稿をどこかで発表したいと思いながら、いい機会はなく、中央大学に移って、「白門」という雑誌に書いてみればという紹介してもらって、ほこりを払って出してみることにしました。もちろんその間にすっかり様変わりした世界のなかに2000年当時に原稿をそのまま出すわけにはいきません。ウクライナ戦争勃発という時代にふさわしく、新しい問題意識に基づいて書き換えたところ、むしろ今の方が「現代思想の最前線としてのヘーゲル」という当時のタイトルにふさわしいものになったと感じています。23年も寝かせておいたことは無駄ではありませんでした。
この最初のきっかけを作ってくれた石井さんは、2005年、45歳にして留学先のフランスで客死されました。この新稿を彼に捧げたいと思います。

2023年3月 62歳の誕生日を前にして

本稿は以下のところ(Researchmap)からダウンロードできます。
「ヘーゲル『精神現象学』の迷宮を歩く(上)――非理性的時代に理性を求めて――」
(掲載紙:「白門」(中央大学通信教育課程)第74巻 2022秋 通巻852号、2022年9月、32-51頁)
https://researchmap.jp/tysh/published_papers/41548872

「ヘーゲル『精神現象学』の迷宮を歩く(下)――非理性的時代に理性を求めて――」
(掲載紙:「白門」(中央大学通信教育課程)第74巻 2022冬 通巻853号、2023年1月、69-80頁)
https://researchmap.jp/tysh/published_papers/41590116

慶應義塾の時間

現代 社 会 を 理 解 す る た め の『 大 論 理 学 』 注 釈(7) 第一部・『第一書 存在』・その5 「第二編 大きさ(量)」(初版)への注釈(下)後半

代 社 会 を 理 解 す る た め の『 大 論 理 学 』 注 釈(7) 第一部・『第一書 存在』・その5 「第二編 大きさ(量)」(初版)への注釈(下)後半

現代 社 会 を 理 解 す る た め の『 大 論 理 学 』 注 釈(7) 第一部・『第一書 存在』・その5 「第二編 大きさ(量)」(初版)への注釈(下)前半

代 社 会 を 理 解 す る た め の『 大 論 理 学 』 注 釈(7) 第一部・『第一書 存在』・その5 「第二編 大きさ(量)」(初版)への注釈(下)前半

現代社会を理解するための『大論理学』注釈(6)第一部・『第一書 存在』 その4「量」(初版)への注釈(上)

所収:「ヘーゲル論理学研究」第25号(ヘーゲル論理学研究会編、2019.11.30)105-166頁。黒崎剛著

→現代社会を理解するための『大論理学』注釈(6)第一部・『第一書 存在』 その4「量」(初版)への注釈(上)

エッセイ003 自然の反乱

今年は花見もなしでした

 4月の終わりになってもコロナ禍は収束の気配を見せない。大学も閉鎖され授業も開講できない。大慌てで「オンライン授業」をする準備をしているのだが、普段デジタル・オンライン依存率を自覚的に高めないように努力し、いまだにスマホさえもたない(けっこう不便さは感じていますが)私はなかなか対応できない。だが店を開けることができない、収入が途絶えたという人たちから見れば、そんなことでぼやいているのはぜいたくな悩みでしかないだろう。それにしても、学生たちも胸を弾ませて故郷を後にして新しい世界に来てみれば、学校の門は閉ざされ、対面授業も、サークル活動も、アルバイトも何もない、自粛要請をまじめに守って下宿に閉じこもっているだけだとすれば友達もできない。これでは何のためにこれまで頑張ってきたのか分からなくなるだろうと心配になる。

 

 人が知らせてくれたが、ドイツではメルケル首相が第二次世界大戦以来の危機だと訴えて国民の団結を求める演説をし、感動を呼んでいるということだ。危機の時に重要なのは、普段の感情を殺して同じ方向へ足並みをそろえられるかだが、それにはいい指揮者が必要だと痛感する。優秀な船頭のいない国の民は哀れだ。

 

 では、哲学研究者というのはこういうとき何をしているのだろうか。

 例によって何か抽象的なことを論じているのだが、こういうときよく出てくるのが「現代文明の脆弱さ」を指摘して警鐘を鳴らすというやり方である。さっそくこの言葉を使って論じている新聞記事を見たが、しかし「現代文明の脆弱さ」という言葉で現在の状況を言い当てようとするのは弱すぎて言葉の力を感じない。現代文明が脆弱なのはわかりきっていることだから、それが何に起因しているのをイメージ豊かに可視化するもっといい言葉はないかだろうか。

 私は「自然の反乱」という言葉を思い浮かべた。「現代文明の脆弱さ」とは「資本主義」というシステムが自然のちょっとした振る舞いで簡単に機能しなくなることを言っている。では、ウィルスが蔓延すると、どうして資本主義は機能しなくなるのか。それは資本主義が自然が主体的に(人間の思惑とは経験なく)振る舞うことがあるという当然のことをごくあっさりと無視しつづけていることにある。自然が反乱を起こしたのだ、と言うと擬人的すぎるだろう、と思う人もいるだろうが、「現代文明の脆弱さ」と言うよりは、問題がよく見えると思う。

 この言葉はマックス・ホルクハイマーの『理性の腐食』(Eclipse of Reason)という本のなかの一章のタイトルにもThe Revolt of Natureとして出てくる。自然のrevoltとは、意訳すると、自然が人間にムカついて受け入れてくれなくなることである。興味があったら一読をお勧めする。この本はかなり難解な書き方になっているので、今はそれに触れないでおくが、要するに資本主義下の「理性」は自然から何を分捕れるかしか考えない腐敗した思考だと言いたいらしい。

 

 自然が人間に対して危害を加えるきっかけになるのは、①人間が自然のもつ目的(有機的な統一性)を無視して自分たちの目的を外から無理やり押し付けたときと、②自然の流れを加速させるほど人間たちが密集して生きている場合とである。困ったことにこれを本質として成立しているのが、今我々が放り込まれている資本主義というシステムなのである。

 資本主義の自然観というのは人類史上独特なものである。そこにはおよそ自分たちにとって母なる故郷だとか、自分を生かしてくれる根源的存在だとか、そういう感傷や畏怖というものがまるでない。ひたすら自然を量化し、数学的計算に落とし込んで、その計算の上にどれだけの富を引き出せるかを考える。それが近代的=資本主義的=合理主義的自然観なのだが、人間が嬉しがる富を産出するという目的は自然にとっては全く外的なものだから、その視点から自然を切り取って認識していれば当然人間にとって都合の悪い部分は認識の外になる。そして、自然に対して外的な目的を押し付ければ、自然の方が予期せぬ反応を返すことがある。しかし何か都合の悪いことが起きると、資本主義的人間は「想定外でした。遺憾なことです」といってやりすごそうとする。まことに遺憾なことであるが、その点ではみんな同類なので、実際それ以上の責任は追及されないことが多いことはだれもが知っているだろう。

 しかも資本主義は本質的に危機管理を嫌う。コストがかかるからである。ウィルスは出てこない、地震は起こらないということを前提にして社会を組み立てているから、一回起こったらすぐに社会システムがダウンしてしまう。

 それに「グローバル化」が加わるとさらに困ったことになる。そもそも人間の歴史はグローバル化の歴史だが、資本主義は市場の世界的統一に邁進しないと自己維持できないシステムなので、グローバル化を極端に加速させた。これが反乱を起こす自然にとってはまたとない援軍となる。資本主義以前は人の移動は限られていたので、人が病気を媒介するということは限られていた。しかし資本主義がその枠を打ち破った。EUの行っていた、国境の機能を廃して人の往来を自由にするという行き方は発展した資本主義国同士が当然とるべき道であったが、それが一瞬にして悲劇の原因となる。自然がたった一種の新型ウィルスを解き放っただけで、世界中の社会システムがマヒしてしまう。この原因を作ったのは人間の方で、自然ではない。たった一種の小さな小さな存在でもこれだけの危機を引き起こせる。自然の偶然でいま関東大震災でも起こったらもう終わりである。

 

 自然はコントロールできるもの、しなければならないものという前提で社会ができているから、それが予期せぬ振る舞いをしたときには全部想定外になってしまう。そんなとき個々人は社会システムを維持して死ぬか(病気が蔓延しても働きに行って感染する)、社会システムを崩壊させて死ぬか(経済活動を休止したら仕事もなくなって生きていけなくなる)という極端な二者択一を迫られてしまう。生き残れるかは運しだいだから、結局自然に任せることになる。

 

 コロナ禍をやり過ごすことができたら、もっと本気で「資本主義でいいのか」を考えた方がいい。1990年代に既存の社会主義国が崩壊したとき、「けっきょく資本主義しかないのだ」とあきらめてしまった人が多すぎた。社会主義でなくてもいいから、資本主義を超えることのできる社会システムを真剣に追求すべきだったのである。東北大震災のときの原発崩壊はそのために自然のくれたチャンスだったはずだが、しかし結局「反原発など現実的ではない」という声の方がどんどんでかくなっているようだ。私も大声で反論を出してこなかったことを反省している。もともと私は「ポスト資本主義」を自分の研究人生最後の課題とするつもりだったので、もう待ったなしだと覚悟している。

 

 ちなみにヘーゲルもこの点では責任がある。彼の哲学体系は、人間的理性が自然性を克服して精神的=理性的な社会的システムを作り上げるというモデルを見事に体系づけて提供している。ヘーゲル研究を通して社会に貢献しようとするなら、彼の哲学のすごさだけでなく、そのダメなところももっと伝える必要がある。

 

 さらにちなみに、このコロナ禍とまったく並行して『生命倫理の教科書』という共著の改訂をすすめていたのだが、この本の基調は、人間の体という「内なる自然」に手を入れたとき、まさに「自然の反乱」を招いてしまうのではないかという恐れにある。著者どうしの議論では、私は科学技術の否定的側面にこだわりすぎるという批判もあったが、その基調は押し通した。結局、自然に不用意に手を突っ込めば「予期せぬ反応」で自然は応答するということを強調したのは正しかったと思う。正しく危機感をあおることは必要である。

 

(2020.4.20 黒崎剛)

エッセイ002 堤防が好き

川に現れたふしぎなもの

 今年2019年を終えるにあたって、ドイツから帰国したことを除き、特に思い出されることと言えば10月の台風である。過ぎてから1か月以上たっても、我が家の目の前にある川にはまだこんな光景が残っていた。何かのオブジェのようだが、川の水位を測る鉄棒に流れてきた草が巻き付いてできたのである。あまりに珍しいので紹介したくなった(今はもうありません)。隣の堤防と比較してもらうと、すれすれまで水が来ていたことが分かるだろう。よく決壊の越水もしなかったものだ。改めて何ものかに感謝せずにはいられない。この川は普段は水量がごくわずで広大な河川敷が広がっているのだが、台風が来ると一気に増えていろんなものが流れ込んでくる。(今年は近くに遺体まで流れてきた。どなたかは分からないが、ご冥福をお祈りします。)堤防の上と河川敷は夏の間にジャングルとなり、堤防上は行政が刈り取るのだが、河川敷の方は一度の増水できれいさっぱり草が枯れる。この自然の草取りは秋の風物詩のようである。

 我が家は川の堤防の下にあって、2階はその堤防と同じ高さにあり、川の流れがよく見える。台風当日、朝の内にすでに濁流が超えてきそうになっていたので慌てて豪雨のなか子供連れで歩いて行ける避難所を探した。何とかたどり着き、コンクリートの床に新聞を引いて寝た。それでも安全な建物で一夜すごせたのは幸運だった。

 私は「堤防」が好きである。生まれ故郷の町は、むかし、利根川の堤防が水に敗れ決壊して沈んでしまったことがある。たまにそんなことはあっても、あれはいつでも踏ん張って我々を守ってくれているのである。堤防、とか、防波堤、とかを使った比喩がたくさんあることを考えれば、我々が無意識のうちでいかにそれを頼もしく思っているかわかるだろう。一方で堤防の建設が自然破壊の象徴とみなされることもあるが、それは良くも悪くも堤防が人間の営みと自然の脅威との接点に存在するからである。人間の祖先たちは農業をする以上、かならず堤防を作った。堤防は文明の基本とも言える。

 今回、目の前の川があの状態で越水しなかったことで、普段は反権力志向の私も堤防や流水を管理していた行政にも感謝し、ちゃんと市民税も都民税も払うよという殊勝な気になった。いま政治家が税金を使った「桜を見る会」にお友達を招待していたとか、偉い人が大嘗祭とかを税金でやっているとかの話題がだされているが、堤防保全のようなことに使ってくれるのならだれも文句は言わない。億の税金を使うのなら、公開できない秘事にではなくて、災害にあった人たちや首里城再建にでも出せばいい。簡単な事だけど、優先順位を間違える人が、特に政治家には多いような気がする。

(2019.12.28 黒崎剛)

エッセイ001 元号で数えられない

今年は何でも令和初

 日本に帰ってきて最初の騒ぎが「令和」改元だった。ある人が役職についている間だけで時代の名前を決め、何かの拍子でその人が退くと「時代が変わった」と言う。時代の区切りは何らかの変わり目ではなく、恣意的に設けていいことになる。周りの人と話をしている限りでは、そんなこと、ほぼ100%の人が「ばかばかしい」と苦笑する。でもマスコミ報道では日本人の100%近くは祝福して浮かれていたことになっている。私の学生たちも改元当日都心に繰り出して騒ごうとしていたのがたくさんいたようだが、結局クラブがあったので誰も行かなかったそうだ。若き日本人にとって天皇代替わりの祝福の表明はクラブ活動より重要性は下だということか。その良し悪しはとりあえず措いておいて、私が嘆いたのはこれでまた年号が数えられなくなるということだ。

 いわゆる明治維新が始まった1868年から数えて今年で151年目。その間に明治、大正、昭和、平成と4つも年号が変わり、今度で5つめ。もう年を頭の中でつないでいくことは私にはできない。単純計算が苦手なのである。昭和期はまだ「昭和20年が1945年」という目安があったので何とかなったが、平成以降はもう年が数えられない。平成元年が昭和何年か覚えればいいじゃないかと言われるが、絶対に忘れてしまう。たぶん覚えること自体に抵抗感があるのだとしか思えない。元号が印刷されている書類に年号を書くとき、今年は平成何年かそのつど計算しなければならないので、イライラしてむりやり西暦で書いてしまうことも多かった。実際にはこんな不便を誰が強いている?と内心思っている人は多いらしい。役所や職場でたびたび「これからは西暦で統一しよう」という話が出て、ときどき印刷された元号が消えた書類が出回ることもあったが、どこからか横やりが入ってまた印刷されることになるようだ。

 だが、年号変換ができないでイライラする、というだけではなく、それで歴史感覚や国際感覚というものを身に付けることが苦手になってしまったとしたら苦笑するだけではすまない。元号の使用をある程度強制されていた時期に主要記憶を形成した私の場合は間違いなくそうで、いまも日本と他の諸国との歴史を直観的に重ねあわせることができない。フランス革命勃発の時期に日本がどうなっていたかということを、年表を見なければ思い描けないのである。

 歴史的時間というのは直線的なものである。途中で区分けするのではなく、開始からずっと積み重ねていかなくてはならない。だから1万年とか7000年とかあまり長すぎるとやはり歴史的直観が働かないが、元号のように長くても60年で短く切られてしまっても歴史的な感覚が働かないのである。この点で西暦というのは結果としてちょうどいいところにあって、2000年程度だと感覚的に歴史的時間を摑むことができる。世には西暦はキリスト教歴だからそれを非キリスト教徒が使うのはおかしいという人もいるが、他にいい数え方がない以上、便宜的と割り切って使えばいい。(実在のイエス様は紀元前4年に生まれたというのが定説だそうだから、キリストの生誕を記念しているわけでもないということになる。)

 それでもキリスト教くさい西暦をつかうより日本独自の年号を、とこだわる人には、こんな提案をしたい。それは明治維新の始まった1868年から敗戦の年1945年まで一区切り、1946年を戦後元年として数えるというものである。そういうふうに年を数えれば時代感覚が養えると思う。将来的にはどうなるかな。世界統一政府ができれば、それを人類紀元元年として、それ以前は「紀元前○年」として数えることになるかな。

 ところで、1868年から数えはじめてみると、面白いことに気づく。「明治維新77年」に旧大日本帝国は1945年の破滅を迎えている。77年というのは、一つの歴史的ダイナミズムが始まって完結するのに十分な時間であるというわけか。それから1946年を新日本の「戦後元年」として数えはじめると、2022年に「戦後77年」となる。「戦後」も77年という一区切りするのに十分な時を迎えるのである。単なる数にすぎないが、なにか意味あるような気もしてきた。私はながいこと「歴史認識」や「戦争責任」についての本を書きたいと構想を温めてきたので、この2022年にそれを実現しようかという思いが湧いてきたのである。あと2年ちょっとでできるか、ヘーゲル研究も手が抜けないが、試してみようと思っている。

(2019.10.19 黒崎剛)

エッセイ000 「哲学者のひつまぶし」

空に元号は関係ない

 私は仕事が遅くて何かをすばやく書くということができない。それでもちょっと勘違いをして、2018年春にはじめての海外暮らしをしたとき、たぶん興奮していろいろ書きたいこともあるに違いないと思って「ドイツ日記」というものを始めた。が、やはり元々の根性変わるはずもなく、書くべきことはいっぱいあったし、「日記」であれば1年に365回書いてもいいはずだったが、9話で終わったのであった。

 それでもこりずにせっかくHPを作ったのだし、「ドイツ日記」はもう思い出くらいしか書かないだろうから、それとは別に「哲学者のひまつぶし」というタイトルで、これから駄文を時々載せていこうと考えたのである。

 もともと怠け者のくせにHPなどを開設したのはわけがある。私事になるが、この3月で8年間勤めた都留文科大学を退職し、中央大学の法学部に移籍した。「わけ」というのは前の大学でのことで、いろいろとあって、学長・副学長から目の敵にされ、大学側からついに私のゼミまで取り潰され、専門の担当授業も数年先に廃止されることになり、あまつさえ所属学部も変更されようかというありさま。それで同じ目にあっている諸君とともに訴訟に打って出た。(いったい何があったのかは、裁判が終われば発表できるだろうから、お楽しみに。この件は現在の日本の文部科学行政の在り方を考えてみると、なかなか面白い事例なのである。)ともかく大学内ではすることがなくなったので、大学外に活動の場を移すことにし、その一環としてHPにも力を入れることにしたのだった。ところが本年度から幸運にも大学を移ることができて、新しい職場では他の教員と同様に学内の仕事もやらざるを得なくなったので、かえってヒマはなくなってしまった。それでも自分の怠け癖を直すために一度やろうと思った書き物は続けていきたいと考えたわけである。

 「ひまつぶし」というとなんだが不真面目なようだが、「学者」の英語scholarが古代ギリシャ語のスコレーscholē、つまり「ヒマ」からきているとはよく聞くことだ。「ヒマ」と言っても何もすることのない退屈な時間の事ではなくて、精神を充実させるために時間的余裕というべきだろう。古代ギリシャの哲人(ヒマ人)のように奴隷に生活上の仕事は任せて研究するなどということはできないが、そういう時間がなければ研究などできないのだし、その意味で研究などというのはすべてひまつぶしだと言える。だからひまは正しくつぶすことが大切であって、もてあましてはならないのである。

「小人閑居して不善をなす」などということわざもある(つまらない人間は退屈すると悪いことをするという意味)。私も小人なので不善をなさいよう、ひまな時間を有意義につぶそうと決意したのである。

 と、ここまで書いて終わりにしようと思って読み返したら、タイトルが「哲学者のひつまぶし」となっていることに気付いた。私はメールなどでも間違いが多く、「誤字脱字王」とまでののしられたこともある。またやりましたかと反省して直そうと思った。が、「ひつまぶし」と言えばウナギをご飯にまぶしたもの。するとあれこれとりとめのないことを取り混ぜて書くのにぴったりではありませんか、などと思いかえして、そのままにしておくことにした。本物のひつまぶしは名古屋名物だが、以前に入試の出張で名古屋へ行った時、小遣いが足りなくて手が届かなかったことが心のどこかに恨みとなって残っているに違いない。なんともあさましい。

(2019.10.20 黒崎剛)

 

研究ノート第4回 ライトクルトゥーア/先導文化論争:「ドイツの先導文化」概念をめぐる論争の本格化(2000)

 1980年代後半から盛んになったドイツの「多文化社会」Multikultuelle Gesellschaftの論争に、Leitkulturなる概念が飛び込んできたこと、しかもこの概念はそれをつくったはずのバッサム・ティビの込めた意味(「ヨーロッパの先導文化」)から離れて、「ドイツの先導文化」となって現れたことを前回までに見た。もともとティビは「多文化社会」が「並行社会」を生み出すことを危惧し、それを克服することを構想するなかでこの概念を提起したのだったが、現実の文脈では「多文化社会への批判」の部分だけがクローズアップされることになった。つまりCDUをはじめとする保守勢力が多文化社会肯定論への抵抗概念としてのみこれを利用しようとした際に、当然のこととして「ヨーロッパの」という普遍主義的含意がすっぽ抜けて、「ドイツの」というナショナリズム的概念に転化してしまったのである。そしてヨルク・シェーンボームに続いて、この概念を多文化社会論への抵抗概念として積極的に利用しようとした二番手は、フリードリッヒ・メルツ(Friedrich Merz)であった。

 

1、フリードリッヒ・メルツの発言

 2000年10月にドイツ連邦議会におけるCDUの議員団議長(Fraktionsvorsitzender)であったフリードリッヒ・メルツが「ヴェルト」紙に「移民〔移住すること〕と同一性」というタイトルの原稿を寄せて、移民統合のために「ドイツの自由な先導文化」の尊重を求めること、「並行社会」に反対することを表明した。

 Friedrich Merz : Einwanderung und Identität. Die Welt vom 25.Oktober. 2000. (https://www.welt.de/print-welt/article540438/Einwanderung-und-Identitaet.html)

 メルツが訴えるところでは、ドイツは他国との友好を大切にする世界に開かれた国であって、一部に排外的な人がいたとしても、それはドイツ全体を代表しているわけではなく、ドイツ人の大多数は平和を求め、外国からの移住者たちと共生することを望んでいるし、経済と科学の面で国際競争に勝つためにも移民の力を必要としているのだから、移住と統合のための規則を必要としている。そこで彼は統合の可能性は二つの面から成り立っていると言う。「受入国は寛容でオープンでなければならず、移民たちも、一定期間あるいは継続的にこの国で生活したいのであれば、彼らは彼らで、ドイツにおける共同生活の規則を尊重する構えがなければならない」。そして彼はこの規則を「ドイツの自由な先導文化」(die freiheitliche deutsche Leitkultur)と呼んだのである。

 彼もこの定式に同意する人もいれば怒りを露わにする人もいることは知っている。なにしろ「ドイツ文化」として、一般に受け入れられた定義はないのであるから。そこで彼は彼なりにこの観念を明確化しようと試みる。

 「われわれの国の自由な文化には、きわめて重要なことだが、我らの〔ドイツ連邦共和国の〕基本法の憲法的伝統が属している。この伝統には人間の尊厳に対する無条件の敬意、譲り渡すことのできない個人の人権、国家に対する自由権と抵抗権が刻み込まれているが、しかしまた市民の義務も書き込まれている。だから基本法は我々の価値の序列の重要な表現であり、ドイツの文化的同一性の一部であって、この同一性こそが我々の社会の内的な団結を可能にするのである。」(第9段落)

 かくも憲法に対する熱い愛を語り、それを自国の伝統と文化と同一視する人は、日本でならば左派の政治家と思われるだろう。保守政治家が憲法を尊重しない国に住んでいるわれわれにはうらやましいと思ってしまうくらいである。

 またメルツは、第二次大戦後のドイツ文化にはヨーロッパの理念が刻まれているのであり、ドイツ人はヨーロッパの統合を我がこととしてきたと胸を張っている。そのヨーロッパとは「民主主義と社会的市場経済に基づいた平和と自由の内にあるヨーロッパ」(第10段落)である。

 意識して明確に書かないのであろうが、もちろんメルツの念頭にあるのはイスラム教徒である。彼が特に勝ち取られた女性の権利は宗教的な根拠から別の理解をする人たちにも受け入れてもらわなければ、と注文を付ける時はそうであろう。彼の主張は次の文ではっきりする。

「宗教の授業や多くの他のことを考慮に入れても、並行社会が生まれてしまうことに耐えることはできないし、耐えることも許されない。他の国々の文化を経験することを通じて文化的な相互関係を結び、互いに豊かになろうとすることにも限界はあって、自由、人間の価値として権利の平等ついての最小限のコンセンサスがもはや維持されないところがその限界となる。そこから外国人との共生するための結論が出てくる。様々な出自の人間が或る自由な国において自分たちの未来をともに作り上げることができるのは、普遍的に受け入れられた価値の基礎の上に立ってこそである。」(第11段落)

 この文に続けて彼は唐突に、移民政策・統合政策を成功に導くためのカギはドイツ語教育にありと述べている。ドイツ語の習得の問題は保守層が統合のカギと見なし、特にこだわりを見せる問題なのである。それはともかく、彼は一般論として、普遍妥当的な価値基準に定位することこそ必要なことであると至極当たり前のことを述べている。最後に、これについての議論を避けたり紋切り型の答えしか出せないものは政治的ラディカリズムに陥るのであって、そんなことは左右の少数派しかやらないと皮肉を言っているから、彼としては自分が中道のつもりなのであろう。

 

2.反響

 (1)このメルツの発言に対する政界からの反響はどうだったのだろうか。以下の記事でそれをいくらか知ることができる。

Guido Heinen: Ein Begriff macht Karriere, in: Die Welt, 1.11.2000.

( https://www.welt.de/print-welt/article541681/Ein-Begriff-macht-Karriere.html)

 「或る概念が出世する」というタイトルの意味は中身を読んでもはきとしないが、「ライトクルトゥーア」という概念がティビの意図から少し離れて、政治的論争の最前線で使われ出したことを指すのであろう。メルツの発言を受けて、SPDや「緑の党」の政治家からばかりでなく、彼の与党内部からも疑義が出されている。

 例えば緑の党からは、外相ヨシュカ・フィッシャー(Joschka Fischer)がメルツの発言を聞いて「鴨の巣Entenhausenの先導文化的同一性は何なんだい」と茶化したというし(この皮肉は私には分からない)、党首レナーテ・キュナスト(Renate Künast)は「ライトクルトゥーア」という言葉にはほんとにびっくりだと公表し(記事の筆者は「彼女にとっては『ドイツの』文化などはじめから存在しない」と注を入れている)、ユルゲン・トリッティン(Jürgen Tritten) は「民族主義的語彙」と切って捨てた。「民族主義的」völkischというのは、つまり「ナチスの」という意味である。

 外国人委任官(die Ausländerbeauftragteの直訳)のマリールイーゼ・ベック(Marieluise Beck)はメルツの「ライトクルトゥーア」は「愚にもつかぬ言葉の入れ物」と罵倒し、「ドイツは移民社会である」と公式に表明した。記事筆者によると、彼女はこの概念がティビの使った、多文化主義社会に反対する言葉であることを知っているとのことである。

CDUもただちにこの発言を党内で検討したと報じられている。ただしメルツに好意的でも「ライトクルトゥーア」という新概念にはなじめない人もいるらしく、Heiner Geißlerはそれをこれまで使われてきた「憲法愛国主義」Verfassungspatriotismusに置き換えることを提言し、バーデン・ビュルテンベルクのCDU議長ギュンター・エッティンガー(Günter Oettinger)はこの概念をポスターで使わないよう注意したと言う。首相メルケルは、議論が取り留めのないものになるからCDUが党として「ライトクルトゥーア」という概念の内容をはっきりさせることを求めたとのことである。

もちろんメルツ支持を表明したものもいたが、その支持内容を見ると、内容が素晴らしいと言うより、こういう議論をするのはけっこうなことだというだけのことが多い。

 他にライトクルトゥーアという考えを現在いたるまで批判し続けている「緑の党」の政治家としてジェム・オズデミル(Cem Özdemir)が有名であるが、私は残念ながらこの時期の発言を見つけることができなかった。

 (2)ところで、メルツが「ライトクルトゥーア」という言葉を選んだのは、ティビというより、テオ・ゾンマーを意識してのことだったらしい。少なくともゾンマーはそう思ったらしく、以下の記事でメルツに反論している。

Theo Sommer: Einwanderung ja, Ghettos nein – Warum Friedrich Merz sich zu Unrecht auf mich beruft, Die Zeit. Ausgabe 47/2000.

(https://www.zeit.de/2000/47/200047_leitkultur.xml)

ゾンマーは自分が少し前に「ライトクルトゥーア」という言葉を使った理由はよく分からず、ティビの影響かも、と頼りないことを言っているが、それがどうあれメルツと同じ意味で使ったのではないと言っている。ゾンマーの寄稿は「移民はいいが、ゲットーは駄目」というタイトルだが、副題が「なぜフリードリッヒ・メルツは不当にも私を引き合いに出すのか?」というもので、いかにも迷惑そうである。彼は元々右派の移民排斥運動に心を痛め、かと言って緑の党の多文化志向にも同意できないところから、そういう発想をもったのだと回顧している。ゾンマーはすでに1980年代後半から「ドイツは移民国家だ」と主張していた。もちろん、彼もドイツがアメリカ、カナダ、オーストラリアと同じような移民国家ではありえないことは分かっている。彼らのように原住民を保留地に追いやって新しい国家をつくるわけにはいかない、なにしろドイツ人はずっとここに住み続けるのだから。だからと言って多文化社会という考えにも彼はなじめない。あちらにはいくつかのトルコ人のゲットー、ギリシャ人のゲットー、そしてこちらにはたくさんのドイツ人のゲットーをつくるわけにはいかない。「そらだから私は〔多文化ではなく〕むしろ〈多民族〉multiethnischをよしとする。ハイフン付ドイツ人に慣れよう、というのが私の意見だ。つまり、トルコ系ドイツ人Turko-Deutsche、ギリシャ系ドイツ人Graeco-Deutsch、そしてイタリア系ドイツ人Italo-Deutschだ。」(最終段落)

(3)もう一つ、メルツへの反論として、ドイツ・ユダヤ人中央評議会(Zentralrat der Juden in Deutschland, ZdJ)の議長、強制収容所からの生還者パウル・シュピーゲル(Paul Spiegel)の談話を見ておこう。

Paul Spiegel: Was soll das Gerede um die Leitkultur? Welt N24, 11. November 2000.

(https://www.welt.de/print-welt/article546696/Paul-Spiegel-Was-soll-das-Gerede-um-die-Leitkultur.html)

 ホロコースト時代を生きた彼はドイツの現状に対する危惧を表明した後で、「ライトクルトゥーア」についてこう言う。

「ライトクルトゥーアというお話で何を問題にしたいというのか?異国人を追い払い、ユダヤ教礼拝所に火をかけ、家なき人々を殺すのがドイツ文化だというのではないだろうね?我々が基本法〔ドイツ連邦共和国憲法〕に定めた西欧的・民主主義的な文明の文化と価値観のことなのかね?基本法の条項1にはこうある。『人間の尊厳は不可侵である。それを守ることは国家権力の責務である』、と。人間の尊厳――すべての人間の尊厳――が不可侵なものだ。中央ヨーロッパのキリスト教徒だけではないよ!」(第7段落)

 そして彼は「この〔基本法の〕原則がドイツの先導文化であると言うのであれば、私も文句なく支持する」(第8段落)と言い、その上で政治家たち(司法、警察関係者も含めて)に「ポピュリスト的な物言いをするな、条項1を守れ」と要求する。よほど腹に据えかねるものがあるのか、彼は「言葉で火遊びをするな!」と繰り返し要求している。日本でも政治家の失言やネット生活者の炎上遊びにはほとほとうんざりさせられるが、当時のドイツでも似たようなところはあったらしい。

 シュピーゲルの発言に対するドイツ政界の反応は鈍かったようだ。以下の記事によれば、当のメルツはだんまりだったらしいし、首相メルケルはWELT紙の質問にこう答えている。「寛容と相互互恵の文化、われわれの憲法の価値と我々による世界に開かれた姿勢のことをドイツのライトクルトゥーアと呼ぶとCDU内部で決めている。」

„Die CDU sitzt in der Falle“. Welt N24, 11. November 2000.

https://www.welt.de/print-welt/article546695/Die-CDU-sitzt-in-der-Falle.html

 前回紹介したシェーンボームは「ライトクルトゥーア」という概念をよく知らないで使った気配があるが、メルツは確信犯だと思われる。もっともその言葉を政界に送り出す結果になってしまったテオ・ゾンマーが今回紹介した記事で、この言葉の出自にあまり自覚的でなかったことを告白しているので、それがバッサム・ティビの意図したような概念ではなくなっていったことは当然だったのかもしれない。ティビが前回紹介した論文で「ドイツの先導文化」などという誤った概念ができたことに怒ったのもこの後、2002年頃であった。概念が出世するどころか転落していったわけだが、だが概念のこういう運動にこそ、思想の現実性というものがあるということを後に明らかにしたいと思う。

 メルツがやったことは、ティビの「ライトクルトゥーア」から「ヨーロッパの」を除き、代わりに「ドイツの」を自覚的に置いたことである。そしてこの後に人々が問題にしようとしたのは常に「ドイツの先導文化とは何か」であったから、このメルツ式転換によって先導文化論がドイツの特殊問題として成立したと言える。そして「ドイツの」が強調されることによって、先導文化論が統合Integrationよりも同化Assimirationを強いる考えであり、並行社会を克服しようとする前向きの議論ではなく、左派の多文化社会論に抵抗する右派の作戦だと受け取られたることになった。こうして先導文化論はきわめて政治的な、或るドイツ人の琴線に触れ、或るドイツ人の逆鱗に触れる問題として展開していくことになる。

 その他今回紹介する予定でいたが、余力がなくなったので、以下のものについては別の機会をもつことにしたい。

・Ernst Benda: Theo Sommer für Leitkultur. Frankfurter Allgemeine Zeitung, 9. November 2000.

・Volker Kronenberg: Zwischenbilanz einer deutschen Debatte, die notwendig ist: Leitkultur, Verfassung und Patriotismus—was eint uns?, in: Was eint uns? Verständigung der Gesellschaft über gemeinsame Grundlagen, hrsg. Von Bernhard Vogel, Freiburg i. B. 2008, S.188-209.

(2019.07.05 黒崎剛)

注:写真は筆者が「ドイツ的」と感じるものをランダムに載せているだけで、内容とは関係ありません。

第9話 リヒトハウスとは何 か?

写真1(煙突から出ている煙はお香)

これは何でしょうか。

これはドイツの民芸品でLichthaus(リヒトハウス、複数形ならLichthäuser、リヒトホイザー)というものです。陶器製の家のミニチュアですが、用途は、もちろんそのまま眺めるだけでもいいのですが、中にロウソクなどの明かりを入れて窓から漏れる光を楽しむというものです。それでLicht-Haus、明かりの家と呼ばれるわけです。明かりでなくて、お香を焚いたり、アロマオイルを楽しむこともできます。で、Dufthausと呼ばれることもあります。Duftは「香り」ですから香炉、ですね。一年中楽しんでもいいのでしょうが、ドイツではクリスマスものと意識されているようで、その時期に飾ったり、さらに雪の街のジオラマなどをつくってそこにこの家を配置して楽しんだりします。クリスマスマーケットではかならず1,2軒は店が出ています。

 私はこの3月にドイツから帰国しましたが、かの地であらたに見つけてきた趣味がこれです。

 私は元々建物を見るのが好きなので、ドイツでも観光はもっぱら建築見物に徹していました。ドイツの伝統的建築はFachwerkhaus――「木組みの家」と呼ばれています。日本人はこのドイツの田舎によく見られる家屋が大好きなようで、そういう家が町中に残っているローテンブルクなどにいっぱい行っていますね。実際そういう木組みの家の実物は形といい模様と言いまさにドイツに来たという気分を満喫させてくれるものですし、芸術品とよんでもいいものですが、ドイツにはそうした家が観光地に限らず、あちこちの町にけっこうあります。築数百年という、日本ならば厄介者扱いにされるか、文化財となるかという家がごく普通に住居や店舗として使われています。家を大切にするという点では日本はドイツに遠く及びません。乾燥したドイツの気候の元では木造の家が長くもつという事情もありましょうが、ともかく家は何世代にわたって住み、住み替え時でも既築の家を選ぶので、一世代ごとに新築するなどという愚かなことをしません。こういう点が生涯支出を抑えて人生を楽しむ方へ支出することに役立っているのかもしれんですね。もっともその代わり、買うとなると古い家でも値下がりはしません。日本では築30年の家は資産価値ゼロと言われますが、ドイツではそんな家はめったにありません。

 

写真2(ケルンのクリスマスマーケットでの出店)

 そんな家を陶器で作ったのがリヒトハウスで、ただ家をかたどっただけの白一色の実用品もたくさん売られていますが、このように嗜好品として作られるものもたくさんあります。しかも、一つ一つが手作りです。正確に言えば粘土をかたどって人の手で成形するので、ハーフ手作りなのですが、それによって値段も抑えられているようで、私にも手が届く金額設定になっています。ドイツに居ればアマゾンで簡単に数千円で買えます。日本の古民家模型もいいのですが、たいてい一点ものの手作りで、数万円するので、趣味にしようとは思いませんでしたが、こちらなら一回の居酒屋代くらいで一個買えるのがありがたい。私は酒が飲めないので、その分をつぎ込むことができます。

 ただ壊れ物なので、どのメーカーも直接日本には送れませんとのことでしたので、ドイツにいる間に一生楽しむだけの数を買ってまいりました。私は元来飽きっぽくて一つの趣味が長続きしないので(続いたのは哲学研究だけ)、それで十分かと思っているのですが。

しかしヨーロッパからの輸入雑貨には目がないはずの日本人が、なぜかこれには目を付けていないようで、ネットを見てもほとんどリヒトハウスのことは載っていません。「キャンドルハウス」という名でリトアニア産のものは扱っている業者がありましたが、ドイツのものは出てきません。そこで文化的間隙をうめるため、という大義名分で手に入れたお気に入りを紹介しようかと思っています。引っ越し荷物はいまはまだ海のどこかをさまよっているのですが、5月半ばには届くことになっています。面白そうと思った方は、ご期待ください。

(2019.5.10 黒崎剛)

研究ノート第3回 ライトクルトゥーア/先導文化論争:政治家が言葉を発見する(1998)

ドイツといえば思い出すパン「ラウゲンブレッツェル」。ラウゲン液は劇薬指定されているので、日本では食べられないのが残念。

 

 バッサム・ティビによって世に送り出された「ライトクルトゥーア/先導文化」という概念がどうして学術的カテゴリーから政治的論争の中心概念へ転化したのかを探ってみると、主に右派政治家の政治的利用にその原因があるようだ。

 1998年7月にキリスト教民主同盟(CDU)所属の政治家 ヨルク・シェーンボーム(Jörg Schönbohm)が「ベルリン新聞」Berliner Zeitungで「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」„deutschen Leitkultur“ という言葉を使って移民の統合問題を論じたことが無署名の新聞記事に見える。そこでの引用に従うと、シェーンボームはこう言っている。「統合されることのできない外国人は帰ることを望むのかという問いに答えなければならない。我々は並行社会あるいは多文化社会が発展するのを認められない」(文献1より)。「多文化モデルはドイツのライトクルトゥーア/先導文化という課題を、序列の等しい平衡社会の利になるように認めながら、我慢して受け入れている。…だがドイツという国における基本的文化はドイツの文化だ。そしてそれと分かちがたく帰属しているのが憲法の基本的な価値基準なのだ」(文献2より)。「ヨーロッパの」と言ったティビを無視して「ドイツの」と言いかえたうえでこの言葉を使うのがドイツの右派政治家のやり方だが、その先鞭を切ったのがシェーンボームであるようだ。

  1. 「ドイツ的とは何を指すのか?――国家主義的保守主義者が自前の『先導文化』を定義する」Was heißt hier deutsch? Der Nationalkonservativismus definiert seine “Leitkultur”, Die Zeit Juli 1998. (https://www.zeit.de/ 1998/30/199830.assheuer_ schoenb.xml) 初回閲覧日2018.05.24.
  2. 「ライトクルトゥーアはもう使わない」 Schönbohm unzweideutig: „Ich vermeide Leitkultur“. n-tv, 20. April 2006. 初回閲覧日05.24.

 そしてこの記事で無署名の執筆者はすでにこの言葉を胡散臭いものとして叩いている。無名氏は第一に「同質の国民国家など危険なフィクション」だと断じ、「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」とは多文化主義と左派(ドイツを愛さないで、消えてしまったプロレタリアートの代役を探しているような個人)を攻撃する「大砲」だとみている。彼によれば、移民問題で現実に混乱が起こっているのは確かだが、そうした混乱に対して秩序を要求するという臭いが彼の言う「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」から漂ってくる。ロマン主義的な国家論と同じで、シェーンボームは堅固で同質の普遍価値をそなえたドイツの「文化」と「国民」に「かすがい」となるものを求めている。彼は憲法を民族文化に沈めてしまっているし、憲法の人権主義的な核心という西洋的な普遍主義をドイツ的価値と同一視して統合しようとしている。その上でシェーンボームは「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」を持ち出すのである。無名氏は「政治がいったん前政治的な血族社会、『ドイツ的なもの』に同化させられるならば、『ライトクルトゥーア』は政治的な意味での同一化の基準となってしまい、自由と平等というあらゆる自己立法はその背後に斥けられてしまうだろう」と警告を発する。

 第二に無名氏によれば、シェーンボームも「憲法」を口にするけれども、彼の主張が憲法の自由権と背反しているのは明らかで、実際シェーンボームはそれを目の敵にしている。自由権を「ドイツのライトクルトゥーア」であいまい化しようとするとき、「価値」が引き合いに出されるのであるが、そもそもどのような価値が問題とされているのかが決まっていない。「公共の福祉」が何であるかも、誰がそれを執行するのかも分からない中で「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」に従えばいいと言うことは、ドイツの住人はドイツ的価値に従えばいいという同語反復を述べているにすぎない。そして結局持ち出されるのは「国民」(Volksnation)なのである。

 だから無名氏によれば、なぜシェーンボームが移民は「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」に従えと主張するのかも明らかである。SPDのオットー・シリー(Otto Schly)が「外国人にもキャベツの酢づけを食えというのかい」とからかったのは当たっている。つまり移民はドイツの共同価値体系の、固有の生活様式や習慣に適合せよということなのである。国籍と国民的同一性、民族的文化的共同性とを結合させよということなのである。このような「ライトクルトゥーア」主唱者に対して、結論として無名氏は「文化的同一性は指示されることはできず、形成されるだけ」と切り返している。

 ただしシェーンボームは確信犯として「ドイツのライトクルトゥーア」と言ったわけではなく、便利な言葉だと思って深く考えもせず使ったものらしい。2006年の新聞記事では彼はライトクルトゥーアという言葉で他人を指導することなど考えてはいなかったと弁明し、この言葉は「誤解を生みやすい」からもう使わないと宣言している(文献2)。 おそらくドイツの右派政治家は、最初はあまり深く考えずにこの言葉を「ドイツ的なるもの」を守るための言葉と自覚的無自覚的に読み替えて使おうとしたと思われる。

 この無署名記事のなかにはその後に展開される反論のあらゆる要素が出ていて、大変面白いものであるが、一般的にはと同じ日付で出たZeit-の編集者、テオ・ゾンマー(Theo Sommer)のごく短い「社説」(に当たるのだろうか)が有名である。タイトルが、「頭が語る、布は語らず――ドイツのなかの外国人統合は一方通行であってはならない」。

  1. Theo Sommer: Der Kopf zählt, nicht das Tuch – Ausländer in Deutschland: Integration kann keine Einbahnstraße sein Die Zeit vom 16. Juli 1998, Zugriff am 14. Mai 2017.(https://www.zeit.de/1998/30/199830.auslaender_.xml)初回閲覧日05.24.

 日本人には謎かけのようなタイトルだが、ヨーロッパ人には直ちに分かる。ゾンマーはいくつか事例を引いているが、その中の一つがそのタイトルの種になっている。――アフガニスタン出身のFereshta Ludinという女性の教師が、授業中にはイスラム教徒のあかしであるスカーフを取れという要望を拒絶した結果、バーデン‐ビュルツベルクの文化相であるAnette Schavanが彼女を教師として雇わないことを決めたという話である。当局はスカーフを「文化的境界線のシンボル」であり、「政治的〔態度の〕シンボル」と見なしたというわけである。Schavanに対する反応は複雑である。ゾンマーも彼女が他の場合には移民の権利を拡張することに貢献している傑出した政治家であることを認め、さらに社会民主党(SPD)と緑の党(Grüne)の要人も彼女を支持しているという。それにもかかわらず、リベラルの立場をとるならば、人が頭のなかに持っているものの方が頭に巻いているものよりも重要だということになるはずだと彼は文句をつけている。

 これが論争の序盤戦であるが、これだけみてもなぜドイツでこの論争が執拗に継続したのかがよく分からない。このような国家や民族と盾に取り、個人の自由や人権を制限しようとする右派政治家はどこの国でも多数派であるし、それに対して左派あるいは良心的知識人が反論するという図式も日本でもおなじみである。これを明らかにすれば、かなり面白い論争であることが分かってくるだろう。

 

(2019.03.07 黒崎剛)

注:写真は筆者が「ドイツ的」と感じるものをランダムに載せているだけで、内容とは関係ありません。

第8話 クリスマスに対応する

アーヘン市庁舎までのクリスマス・マーケット

 クリスマスはその起源が何であれ、その思想的核心となっているのが、「イエスの生誕」です。である以上、それを抜いたクリスマスは、「釈迦の誕生を抜いた花祭り」、太宰治を抜いた「桜桃忌」、チョコレートのないチョコケーキと同じで、本来想像もできないはずですが、この想像もできない離れ業を日本人はここ数十年やってきました。そのために哲学に興味を抱く傾向をもつ日本人にとって、クリスマスは付き合うのが難しい行事のひとつとなっていました。哲学が好きな人というのは元来原理主義者で、思想的に潔癖な傾向をもっていますから、ある行事からその思想的核心を抜いて楽しむなどということができないのです。

 そのため、私のような、まさしく哲学的性癖をもって生まれた日本人は人生において3度、決断を迫られます。

 第一に幼少期。クリスマスケーキを拒絶するか?哲学少年にとって人生最初の試練です。私の場合、小学生の頃ですが、疑問を抱きつつ、いただきました。なぜなら、その昔、やっと不二家が生クリームのケーキを出したころ、それは特別なお菓子で、クリスマスの時にしか奮発してもらえないものだったからです。いつもはバタークリーム。これはこれでおいしいのですが、初めて口にした生クリームの、あの身をうち震わせるような感激を経験した子供にとっては、選択肢はないので、悩みもなし。

 第二に青年期。青年はことに潔癖性を尊ぶゆえ、問題は深刻化します。特に哲学的青年にとっては恋人ができたとき、12月24日(25日はどうでもいいと言うところが、思想的に支離滅裂なところ)をどう過ごすかが人生最大の悩みでしたか。思想を採るべきか、性を採るべきか?女性の場合は、哲学青年でも、「イベントとして捉えている」という分かったようなわからないような理屈で難なくスルーしている人が多かったようです。男の哲学青年は全国的に恋人がいない率が大変高い傾向にあって、問題自体が発生しないという人も多かったようです。お前もそうだろう、と言われそうですが、ほぼその通りかな。とはいえ、どうしたらいいのか悩むことはなかったわけではないです。まあそんなときはクリスマスを祝うふりをして、心のなかでは平時と変わらず様に過ごしました。

 第三に、家庭をもった時。特に私のように、複数の女児をもった場合。これはもう無理です。それこそ哲学青年女性のように「イベントとして捉えている」とスル-するしかありませんね。

 日本にいるときはそれで何とかなっていたのですが、ドイツに渡るとちがってきます。 ドイツにいくらイスラム教徒が増えても、キリスト教徒が教会に行かなくなっても、やはりクリスマスは生活の核心となる重要な行事です。なにしろ彼らは1年の6分の1をクリスマス関連で過ごすのです。

 その最たるものが「クリスマス・マーケット」(ドイツ語ではWeihnachtenmarkt)と呼ばれる市です。これは11月に入ると始まって、基本的に12月23日、長いところでは(私の住んでいるデュッセルドルフがそう)30日、または正月明けまでやっています。実は私、ヨーロッパにこんなものがあるとはこちらに来るまで知りませんでした。どうやら世界的に有名で、このマーケットの発祥がそもそもドイツだということで、外国からのツアーまであって盛況だそうです。

 まずいことに(うまいことに?)私の住む近隣にアーヘンとケルンがあって、どちらも世界5大クリスマスマーケットに数えられるのだそうです。話のタネにでもしようという気持ちで、まずアーヘンの方へ行ってみました。要するに日本でいう「縁日」と遊園地と博覧会を重ねあわせたものです。飲食ととともにいろいろな工芸品が制作・展示されるので、下戸の私はもっぱらマイスターたちの作品を楽しみました。すっかりはまってしまったものもあるのですが、それはまたそのうちに。昼間からもやっていますが、夜になると華麗な電飾がどっさりともされ(この時ばかりはドイツ人の環境保護意識も跳ぶらしい)、無数の屋台が立ち並びます。屋台も基本的には簡素な造りなのですが、中世風の家を模したかわいい(←私が言うと気持ち悪いでしょうが、耐えてください)つくりで、しかもアーヘンやケルンの場合には大聖堂や市庁舎という堂々たる大建築をバックにしていますので、まさにメルヘンの世界(←もう一度耐えよ)です。

デュッセルドルフ会場の観覧車

 かくしてクリスマスに浸りつつ、今自分が置かれている状況を考えてみました。

 私が置かれていた状況は誠に原理主義者としては恥ずかしいものです。これがクリスチャンならば、どんなにクリスマスでどんちゃん楽しんでも、最後にキリストの生誕のお祝いだと言ってまとめて自分の良心と折り合いをつけることができます。では非-クリスチャンはどうするか。やはりここはあきらめてキリスト教に帰依するしかないのか。

 宗教的支配者が民衆にその信仰を浸透させようとする場合、日本の仏教用語を使うと、「荘厳」という作戦をとります。寺院や像を華麗に飾りたてて、民衆の度肝を抜き、ありがたやと思わせるやり方で、もちろん宗教とは関係なくても権力者が壮麗な王宮などを立てるのも同じ作戦です。で、たいていの民衆はその通りに度肝を抜かれておとなしくなってしまうのです。現代でもこの作戦はありますが、今はそれとは違ってある種の雰囲気というものが「荘厳」に代わって通用するようです。それがつまり、例えばクリスマスのロマンチックな雰囲気心を味あわせて、キリスト教徒になる垣根を低くするなどといったことにあたりますか。

 しかし日本人は手ごわい敵で、どんなにクリスマスに酔ってもクリスチャンになろうなどとは思わず、クリスマスが終われば盆暮れ正月ですわとすぐ気分転換してしまう人たちです。原理主義者としては、若い頃はこの手の人たちの節操のなさが耐えきれなかったのですが、今では評価が変わっていて、宗教というものをかのようにスルーする力というのは、現在の人類のなかではなかなか貴重なのではないかと思えてきました。原理主義と宗教が結びつくと、時々とんでもないかたくなな思想が生まれ出てしまうことを私たちはよく知っています。もともと一神教は不寛容さと隣り合わせの思想ですので、それが悪い面で出れば、あの世に天国を示すことはできるが、この世に地獄を現出させることがあります。そんなことを思ってみると、世界の宗教行事を「イベント」と割り切って楽しむというのは、実はいまいちばん賢い行き方で、これからの人類の宗教に対する態度のヒントになるのではないかと思えてきました。一神教から多神教への回帰というより、初期ローマ帝国のような、宗教的寛容の精神がまた時代の要請になるのかもしれない。そうなると、あらゆる宗教行事をイベント化して流れに乗るという日本人のでたらめぶりがこれからの人類にとって正解かもしれないなとさえ思えてきました。日本でのここ数年のハロウィンの突然の普及ぶりを見ていると、そこまで寛容になれない気もしますが、私の場合、不覚にもクリスマスに浸ってしまったおのれを浄化するために、4月には花祭り(釈迦の生誕祭)をお祝いしようかと思っています。

(2019.1.23 黒崎剛)

研究ノート第2回 ドイツのライトクルトゥーア/先導文化(Leitkultur、主導文化)論争の始まり

ドイツの代表的な縁日料理・Reibekuchen。すりおろしたジャガイモの天ぷらといったもの。

はじめに:「先導文化」のイメージ

この論争はどういうものなのか、まずイメージを持ってもらうために以下の項目を見ていただこう。

  1. 顔・姿を隠さないこと。
  2. 普遍的な教養と教育に価値を置くこと。
  3. 自分たちのなしたことに誇りを持つこと。
  4. ドイツ連邦共和国の歴史の相続人であること。
  5. 文化的国民であること。
  6. 宗教の役割を考えること。
  7. 紛争の調停における文民統制。
  8. 啓蒙された愛国者であること。
  9. 欧州の一員であること。
  10. 場所と思い出に関する共通の集団的記憶をもつこと。

 これは2017年にメルケル内閣の内相(Innenminister)を務めるトマス・デメジエールという政治家が公表した「私たちはブルカではない」という声明(「ブルカなんていらない!」というところだろうか)に挙げられた、「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」の彼流10項目の要約である*。ブルカとはご存じのとおりイスラム教徒の女性が被るヴェールの一種である。一見してまったくバラバラな項目が並んでいるだけなので、学的吟味に耐える内容ではない。しかし「これがドイツの先導文化なんだ!」と内閣の一員が言っているのだから、ドイツの人々の何らかの共通了解を反映したものなのであろう。実際それほど過激な要求ではないし、それどころか常識的とも言えるもので、排外主義的だとも言えない。これについてはまたこのエッセイの最終回くらいで正式に取り上げるつもりだが、ドイツ保守層の考える先導文化のイメージを作るには持ってこいなので、まず紹介しておく。

*Thomas de Maizière:“Wir sind nicht Burka”: Innenminister will deutscher Leitkultur. In: Zeit Online. 30. April 2017.

 これが「ドイツの先導文化とは何か」という問いへの答えの一例である。移民たちがこうしたドイツの文化に敬意を払い、それに統合されることができるかを問う人々がいるわけであるが、しかしこの論争を引き起こす起爆剤となったLeitkulturという言葉を提供した人は、そんな話にするつもりはなかったのである。

 

1.バッサム・ティビによる『同一性なきヨーロッパ?』での問題提起

きっかけとなったのはバッサム・ティビ(Bassam Tibi)という人のヨーロッパ文化論だった。

 この人はシリア出身の社会科学者である。2016年のWELT紙に彼のインタービュー記事が出ていて、自分の生い立ちや知的環境について詳しく語っていたのだが、その号が目下手元になくて引用できなくなっているので、記憶の確かなところと他の著書の紹介記事合わせて紹介すると、彼はシリアの大貴族の出で、彼の行動が新聞に載るほどの貴種であったらしい※。1960年代初めにドイツに移住し、ホルクハイマーに師事し、アドルノとも交流があったという。セレブで、かつ当時最高の知的環境のなかにすごした国際派の学者像が浮かぶ。

※ 追記(2019.3.21):Welt Online: „Deutschland ist immer noch kein normales Land“, Veröffentlicht am 04.07.2016. (https://www.welt.de/debatte/article156781355/Deutschland-ist-immer-noch-kein-normales-Land.html)

 

 その彼がLeitkulturという言葉を世に送り出した。それは1996年にはですでに提起されていたが、その概念がまとまって提示されたのが1998年に出された以下の書(の第一版)であった。

Europa ohne Identität? Die Krise der multikulturellen Gesellschaft. München: Bertelsmann.1998.

『同一性なきヨーロッパ?――多文化社会の危機』

 この本は別に先導文化論として書かれたものではなく、副題が示している通り、知識人によって主唱された「多文化主義社会」が危機に陥っていることを指摘した、広い意味での哲学的文化論である。先導文化については、彼はこの本ではヨーロッパ近代の価値観こそがヨーロッパ諸国の移民にとってのそれである、という極めて穏当なことを言っているにすぎない。例えば、彼は自分の意見を要約してこう言っている。――「望ましい先導文化のための価値は、文化的意味での近代から発しているのでなければならない。そうした価値というのはこういうものだ――民主主義、世俗主義、啓蒙、人権そして市民社会である」(S.154)。ヨーロッパの学者がそう言えば単なる近代主義者としか思われないだろうが、シリア人の移住者(Migrant)でイスラム教徒の学者がそういえば多少重みは違ってくる。彼は非ヨーロッパ人・非キリスト教徒としても、ヨーロッパ諸国が世界に加えた歴史的な暴力がどうあれ、ヨーロッパ近代が作り出したこれらの価値こそがヨーロッパにおける社会統合の核心になるものとしてふさわしいと言っているのである。

 ちなみにティビは彼を取り囲む情勢の変化に機敏に対応してこの本を後に改定しており、副題も二度も変わっている。その変化は明らかに緊迫していくヨーロッパの移民問題の推移をストレートに反映している。先導文化論争が起こった後でこの本がペーパーバックになって出版されたとき、副題はそれを意識して『…――先導文化および価値の選好性(Europa ohne Identität? Leitkultur oder Wertebeliebigkeit)となり(2000/2002)、さらに2016年にだされた改定版では、副題は『…ヨーロッパ化かイスラム化か』(Europa ohne Identität? Europäisierung oder Islamisierung. ibidem-Verlag, Stuttgart)とかなり直接的な危機を感じさせるものとなった。初版との違いは、その語に起こった先導文化論争についてかなり加筆していることである。この本はヨーロッパの文化的立場を考えるための好文献なのに、英語に比べ、ドイツ語の翻訳者の層が薄いためか、翻訳が出ていないのが残念である。

 注意すべきは、ティビが提起するライトクルトゥ-ア/先導文化とはあくまでもヨーロッパのそれである(つまり「ドイツの先導文化」などとは言っていない)ことである。例えば上記2016年の改定版から彼の言葉を引くと、「要約しよう。ヨーロッパの内部では移民たちと分かち合う一つのライトクルトゥ-ア/先導文化が必要である。ヨーロッパの外部では、一つの国際的な道徳性が必要である。前者はヨーロッパ的でなければならず、後者は文化の包括性を打ち出していなければならない」(傍点は原著イタリック、S.292)。彼によれば、一般に先導文化とは或る国民を結び付ける紐帯になるものであって、宗教、民族性、出身を問わない。当然ドイツ人と移民と結ぶ紐帯でなければならない。そしてそれはヨーロッパ的でなければならならない。彼は自分の立場を「価値についての同意」Wertekonsensesに基づく文化多元主義Kulturpluralismusと規定し、多文化主義Multikurturalismusに対しては恣意的な価値観を許容し、「平行社会」Parallelgesellschaftを招来するものだと反対の意を表明している。多文化主義を批判する点ではヨーロッパ知識人の文化論とは一味違うが、大体においては、理性への信頼、政教分離に基づく民主主義、多元主義、寛容と言った近代的価値を承認する点では、戦後ヨーロッパの良識を継承しており、特にフランクフルト学派(例えばハーバーマスの近代論)の強い影響下にあると言えそうである。

 余談になるが、ティビの言うことを聞いていて、私はフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(The End of History and the Last Man)を思い出した。1992年に出版されたこの本で彼は欧米の近代社会において実現した「リベラルな民主主義」をもって歴史は終わる、あるいは人類史の最高峰であると主張した。当時でもかなり能天気な主張だと私は思ったが、そのころは東欧諸国の崩壊、ソビエトの解体によって20世紀社会主義の実験は失敗に帰し、西欧・アメリカのリベラルな民主主義を超える歴史段階は存在していないということが明白になったため、それなりの説得力はあったのである。

 私は能天気であるなどと少々失礼な表現をしてしまったが、たしかにこの議論はいまでも完全に説得力を失っているわけではない。2010年前後に頂点に達したアラブ諸国の民主化運動、いわゆる「アラブの春」においても、目標に置かれていたのは欧米のリベラルな民主主義だったことを思えば、リベラルな民主主義がいまでも人類が到達した最も優れた体制であるという見解は否定できない。

 フクヤマがかの書を出版した90年代前半はまだ欧米型民主主義の将来を楽観できる時期だったかもしれない。ティビが「ヨーロッパの先導文化」を打ち出したのも、もしかしたらそうした共通の時代の知的雰囲気があったかもしれないと思う。しかし21世紀に入ってからは、ティビもそういう楽観主義は捨てたようだ。著書の2000年度版では彼はヨーロッパが固有の同一性をもたぬマルチカルチャーの集合地域になるという危惧を表明し始めている。

ケルン大聖堂。こちらは文句なくドイツを代表する光景。

 

2.ティビのライトクルトゥーア/先導文化の概念

 もう少し彼の言う先導文化の中身を見てみよう。とはいえ、先の主著は大作で、しかも改定され彼自身の見解も発展しているために、紹介するには手間がかかる。そこで、先導文化論争が起こってから、彼自身がそれにコメントした短い論文がある。この論文はネットで公開されているので、簡単にみることができるので便利である。これに従って先導文化概念をできるだけ簡潔に確認してみよう。(引用はI節の第1段落ならI〔1〕と記す。)

*Leitkultur als Wertekonsens – Bilanz einer missglückten deutschen Debatte. In: Aus Politik und Zeitgeschichte, B 1–2/2001, S. 23–26.

 ティビは「ドイツの先導文化」ではなく、あくまでも「ヨーロッパの先導文化」を問題にしている。それは「ドイツ人と移民との間の、民主主義的な、世俗主義的(laizistisch)な、ならびにヨーロッパの生活に根差した(zivilisatorisch)同一性に定位する価値観の一致(Wertekonsens)」(I〔1〕)のことを指す。移民たちはエスニックな同一性を獲得することはできないが(トルコ人はドイツ人にもアラブ人にもなれないが)、「先導文化を手引きとしてのもろもろの価値に定位する同一性」(I〔2〕)は獲得できるのである。ヨーロッパ諸国が大量の移民を受け入れざるを得なくなり、その結果としてヨーロッパ的同一性を再規定しなければならなくなったが、それはつまりドイツ人も自分たちの国が「文化国家(国民)」(II〔3〕)だというような排他的な同一性を捨なければならないということである。なぜなら国民・国家をそのように特殊的に規定してしまうと、それにあずかることのない移民たちに同一性を与えることができなくなるからである。「統合するということは、同一性を与えることができるのでなければならない。どんな同一性にも先導文化は帰属している!」(同)。

 こうしてティビはイスラム教徒の移民として、「ヨーロッパの先導文化」(ヨーロッパの同一性)の概念をドイツのために確立しようとする。「私が先導文化という概念で問題にしているのは、成り行き任せの移住(Zuwanderung)を国の必要に定位した移民(Einwanderung)に転換し、この移民たちをヨーロッパの同一性という枠組みに統合することである。」(III〔5〕)「内的で社会的な平和は共同体についての了解を必要とする。それを私はライトクルトゥーア/先導文化と呼ぶ。それは手引き(Leitfaden)であって、『序列や従属』(Über-/Unterordnung)ではない」(同)。

 そうした先導文化はドイツの文化的近代の諸価値を基礎とし、ドイツ人と移民の同意に基づいた共通の立脚点とならなければならない。だからといって先導文化は「ドイツ人」という特殊性に関わるのではなく、近代ヨーロッパ社会が歴史的に獲得した諸価値でなければならない。彼は言う。「強い意味で要約すれば、そのような先導文化は次の内容をそなえている。すなわち、宗教的な啓示、つまり絶対的な諸真理というものの妥当性に対する理性の優位、個人の人権(したがって集団の権利ではない)、それにはとりわけて信仰の自由が含まれる。政教分離に基づく世俗的民主主義、全面的に承認された多元主義並びに同様に相互的に妥当する寛容さ――これは文化的な区別の合理的克服に役立つ。これらの諸価値を認めて通用させることが市民社会の実体をなす」(III〔8〕)。

 改めて確認すればここで言われている先導文化の要素は4つある。

  • 宗教的啓示に対する理性の優位
  • 個人の人権
  • 民主主義
  • 多元主義と寛容性

 これこそ彼の言う先導文化であり、そういうものがないと、価値における恣意性が勝利し、諸文化が統合せず、共存するのではなく併存して対立しあう「平行社会」Parallelgesellschaft――「文化的なバルカン化」(III〔6〕)が生じてしまうことを彼は懸念している。

 この考えからティビは多文化主義Multikurturalismusを斥ける。なぜなら、多文化主義は人々を価値の合意に導かず、むしろ価値の恣意性を助長し、平行社会を作ってしまうからである。これに対して彼の言う文化多元主義Kulturpluralismusとは「何でもあり」のことではなく、「それに従って区別された世界観をもつ人間たちが共に生き、違う存在と違う考えをもつ権利を保持し、しかし同時に共通の規則――とりわけたがいに対する寛容さと相互の尊敬――に対して〔各人を〕義務付けるという考え」(III〔9〕)なのである。

 さて、このようにみてくると、ティビの言う先導文化には何ら過激なところはなく、20世紀のヨーロッパ思想の成果をまっすぐに継承していることがわかる。むしろ常識すぎるくらい穏当で誰もが「その通り」と言いたくなるような考えであると言ってもいいだろう。

 にもかかわらずこれがドイツでは20年間断続的に続く、激烈と言ってもいいし、何やら生ぬるい感じもする妙な論争の導火線となったのである。――まったく、思想というものはお酒みたいなもので、普遍的に語ればいいことづくめなのに、実際に飲み下すと、つまり特殊・個別的な場面に適用されると、思ってもみない問題を巻き起こすことがある。ティビの提言は口当たりのいいワインのように見えて、その実きつい火酒であったようである。

ではそれはいかにして発火したのか。(続く)

 

(2019.1.13 黒崎剛)

注:写真は筆者が「ドイツ的」と思うものをランダムに載せているだけで、本論とは関係がありません。

第7話 ハイゲート墓地行/マルクスの墓参りを兼ねて

マルクスの墓

 私はいろいろとうかつなところがあるのですが、2018年はマルクスの生誕200年の年なんだそうです。うかつなことに半年過ぎるまで気が付きませんでした。話によると、生誕の地トリーアには中国からたくさんの人が訪れてにぎわったとか。中国にはまだマルクスが好きだという人がそんなにいるんでしょうか。

 トリーアには25年ほど前に行ったことがあるので、今回の滞在中には訪問予定なし。そのかわりにロンドンへ行った際に墓参りをしてきました。ヘーゲルの墓参りは同じく25年前に行っていますので、今度はマルクスのところへ。彼の墓はロンドンのハイゲート墓地にあり、これ自体が有名な観光地になっています。

 11月のはじめ、着いた時にちょうど墓地が開かれる時間で、広い墓地にただ一人、雨の中、風情のあるお参りでした。ハイゲート墓地は広大です。管理人が頼んでもいないのに当然のようにマルクスの墓の位置を教えてくれました。ここを訪れる人のほとんどがそれを目的としているようです。私は地図をもらったにもかかわらず迷子になりました。彼の墓は横町のはずれの方にあります。地図を見直してなんとかたどり着くと、木の陰から突然写真で見たことのある胸像が飛び出してきます。ここか。

 胸像そのものはかなり悪趣味に感じますが、墓碑銘に記された事実には胸を打たれます。一番上に夫人のイェニーさん、ついで夫君のカールさん、二人の孫のハリー君、そしてマルクスの子供を産んだという家政婦のヘレナさん、夫妻の娘のエレノアさんの五名の名が記されている。この下に彼らの亡骸が埋まっているはずです。

墓碑銘

 気が付くと、三々五々、こちらへ向かってくる人影。雨でも墓参りをしたいという人たちはやはりいるのです。年配のいかにもマルクスの研究者ふうの2人づれや、やはり2人づれの若い女性、昔の左翼活動家風の兄さんなど、ぼちぼちとやってきて、墓と対話をしているようでした。

 さて私は、墓地のなかを散策してみました。ヨーロッパにはエピグラム(碑文)という文学形式があり、それが記されている墓があるので、他人様の墓を見てまわるのに楽しみもあります。しかしここは文学形式の墓碑はほとんどなく、生年と死亡日、「いとしいひと、やすらかに」といったようなごく簡単な句が添えられている程度です。だけど墓にはじっさいはそれくらいがいいのです。「妻の思い出に」と書いてあるだけでもいろいろなことが想像されて、何か迫ってきます。ひとつだけとても文学的な句があり、感激して暗記しましたが、忘れてしまいました。「苦しみもなく…死神は…」といった句がとぎれとぎれに頭に浮かびます。安らかな死を慰めとしたのでしょう。

 墓地の静寂さというのは他には比較できないものがあります。死の静寂さですから、絶対性が感じられます。現代では日常から死が遠ざけれたという批判はありきたりですが、墓地を歩くといずれ自分もこうなるのか、ということが身近に想像できます。世界中に墓参りという習慣がなぜかあるのは、亡き人をしのぶばかりでなく、自分自身の覚悟を育てるためなのかもしれません。

 このハイゲート墓地の墓は、もちろん堂々たる石でできていて、立てた人たちは永遠の記念碑にしたかったのかもしれません。しかし、けっこうな数の墓石にはツタが絡まり、覆い尽くし、もう完全に自然に帰っている地区もあります。もちろん管理人はいるのでしょうし、花を植え替えている職人さんもいましたが、墓石の草を取り除く、という発想はないようです。これにはある意味感心しました。日本人は死は誰にでも訪れるもの、という説教を好みますが、その割には墓をよく管理するようです。草が生えようものなら住職に文句を言うか、自分で取り除くかするでしょう。草の生えた墓地は「荒廃」というイメージしかありません。ここでは草に侵食されるままに放っとかれるようで、それが思想的にそうなのか、ズボラで、あるいは遺族が絶えてそうなってしまったのかわかりませんが、ツタに覆われた墓石の一群を見ていると、自然と「立派な墓をたてたって最後はこの通り」とおかしくもなってきます。

草に埋もれゆく墓石

 突然、「人生到る処青山あり」(いたるところせいざん、と読むのですよ。「青山」はあおやまではなく、墓地のこと)という言葉を思い出しました。私の大学院時代の同級生が20歳代でこれを口癖としていて、いやというほど聞かされたのでひょいとでてきたのでしょう。自分の人生は短いことを覚悟している風であり、実際実にはかなげな男でしたが、まだ元気で生存中です。私も彼に30年遅れて同じことを呟き、何かを残したければ墓ではなくて、残るに値するものを残すことだな、と堂々巡りのようなことを考えました。誰もがマルクスのような業績を残せるわけではないけれど。

(2018.12.1 黒崎剛)

第6話 車内助け合い運動ドイツ版

こんなステップですから、ベビーカーや車椅子は大変

 ドイツにいて、「ここが市民社会のいいところだな」と素直に思えるのは、電車内で自然に市民同士が助け合っているところを見るときです。

 私はRheinbahn(ライン鉄道)というのを足代わりにしています。地下鉄ですが、平気で地上を走ります。しかし地上の駅にとまるときは、構造上ステップがかなり高くなり、ベビーカーや車いすでは昇ることができません。で、どうするのかというと、その時周りに居合わせた人たちが担ぎ上げたり降ろしたりするのです。少なくともドイツ人たちの間ではそれは特に「小さな親切」をしているという風でもなく、する方もしてもらう方もどちらも当たり前のことを当たり前にしているという感じです。

 それに街中では車椅子の人をよく見かけます。特にドイツに車椅子生活者が多いというのではなく、車椅子で出かけることのできる環境があるということでしょう。実際、ただ一人電車を待っている車椅子の人を、周りの人が当然のように持ち上げ、当人も当たり前のように持ち上げられているところも見かけます。もちろん「ダンケシェーン!」って言いますが。

 ときには理解できない光景も。或る初老のご婦人が座っているところへ、別なご婦人、それも座っている人と年恰好がほとんど同じとしか見えない人が来て、「そこに座らせてくれるかしら?」と言うと、座っていた夫人は不服そうな様子もなく、「どうぞ~」とさっさと立ちあがりました。日本だと譲った方は何となくバツが悪くて、離れたところに行ってしまうことが多いですが、立ったご婦人は何事もなかったかのように、すぐそばに立っており、座った女性も、何にも気にすることなくすましています。教えてほしい、あなた方はなぜ入れ替わったのか?

 外国人組はそのような有様を見てやはり感心する人も多いようで、この間は明らかにドイツ系ではないと見える或る青年が、女性のベビーカーのハンドルを握って、意気込んでいました。「次の駅に着いたらオレが下すぜ!」とやる気満々というところ。想像をたくましくすると、彼の母国ではそのような助け合いがなく、ドイツに来て何度かそういうところを私同様感心して張り切っていたのではないでしょうか。そばにいる赤ちゃんの母親らしき人も、まかせてしまって別に何の不安も感じていない様子でした。日本だったら、見知らぬ人にベビーカーのハンドルは取らせないでしょう。

最近、こんな記事をネットで読みました(記事自体は古いものですが)。電車の中で老人が席を譲らない若者に対して怒ったところ、こんな書き込みがネット上であったとか。

 「…だが、ネットでは若者に肩入れする声が目に付く。〈なんで上から目線で命令するのか〉、〈まさに老害〉、〈他人の善意を要求するのは無作法〉といった感情的な意見が並んだ。あるネット投票でも、今回のトラブルに関して「老人が悪い」が57%、「若者が悪い」が43%と“若者擁護”が上回った。/しかも、この若者はこんな書き込みもしている。/〈私は優先席を譲りません!!なぜなら先日、今にも死にそうな老人に席を譲ろうとしてどうぞと言ったら『私はまだ若い』などと言われ、親切な行為をした私がバカを見たからです。今後とも老人には絶対に譲りません〉。」(『「優先席譲れ!」で大炎上 けしからんのは若者か老人か』、「産経デジタル」、2016.12.7)

 こういう若者は日本だから生きていけるのでしょうね。身についていないことをやって失敗すると、簡単に傷ついてしまい、そのことを愚痴ると、「分かるよ~」と頭を撫でてもらえるんですから、いい社会だと思います。自分の習慣と化した市民的徳を実行するのではなく、社会全体でそうするのがいいとされているから、というわけでなんとなく行い、やれば社会からほめてもらえると思い、ほめられないと拗ねてしまうというのは、前にも述べましたが、日本が共同体的ではあっても、市民社会的ではないことの現われなんでしょう。

 もっとも、ヨーロッパだからと言って、どこでも席を譲っているわけではなさそうです。イギリスの地下鉄には優先席がちゃんともうけられています。それにドイツ全域でそうなのかも分かりません。感心して結論を出す前に、もう少し観察してみることにします。

 ちょっとドイツを持ち上げすぎたので言っておきますと、日本人の方がいいこともありますよ。例えばタバコのポイ捨て。日本ではここ20年くらいの取り組みでだいぶ減りましたが、ドイツ人はやりたい放題としか思えません。いまだに火のついたやつを古い映画のシーンみたいに捨てている人を良く見かけます。石造りの家が多いので、そう簡単には火事にならんのでしょうが。そうそう、この間私の娘が道に吸殻が多いのに気が付いて数え始め、少し行っただけで100本を超えてしまい、この子は100以上の数え方がまだよく分かっていないのでやめてしまうということもありました。

 この道徳的ギャップは何なのですかね。

(2018.11.01 黒崎剛)

研究ノート第1回 はじめに「ドイツ連邦共和国における先導文化(Leitkultur ライトクルトゥーア)論争」

マイヤー書店の新聞雑誌コーナー・移民関係の報道記事はどこかに載っている

 2018年もドイツは移民問題・難民問題に揺れている。私がドイツについて早々の6月、難民認定申請のさなか(却下され、異議申し立て中に)14歳の少女に性的暴行を加えて殺した男が逃亡先のイラクでつかまり、ドイツに送還されるという報道があったし、最近では8月26日にやはり難民申請が却下された後に滞在中だった男二人が35歳のドイツ人男性を刺殺する事件があり、それをきっかけにしてザクセン州ケムニッツ市で9月に大規模な反メルケル・反移民デモが起こっている。――こうした動きはドイツばかりではない。直近では9月に行われたスウェーデンの総選挙でも、移民制限を訴えた極右スウェーデン民主党が18パーセント近い得票を得て躍進した。――もっとも、こう書いた翌日の10月13日、ベルリンで極右に抗して大規模な反人種差別デモが起きたと報道され、私もドイツ社会のダイナミズムは健在であると印象づけられた。――と思っているところにさらに、10月15日にはバイエルン州議会選挙で、移民に寛容な政策を続けるメルケル与党のキリスト教社会同盟(CSU)が歴史的大敗、反移民政策を掲げる「ドイツのための選択肢」(AfD)が初めて議席を獲得、と右派勝利の報道である。こうなるとダイナミズムと言うより混乱と言いたくなる。

 こういう事態を詳細に追うことはこのノートの目的ではないのでこれでやめておくが、世界史のトップランナーだったヨーロッパ諸国が移民問題で大きくつまずいているさまがあちこちで見られる。ユーロに対する信頼も揺らいできており、EUが崩壊しかねないという緊張がみなぎっている。

 こういう事態が思想というものにどう跳ね返ってイデオロギー的に表現されるのかを分析するのが私の本来の仕事である。そして、そのきわめてドイツ的現われと言えるものとして挙げることができるのがLeitkultur-Debatteなのである。Debatteはディベート、「論争」のことであるからいいとして、Leitkulturはまだ独和辞典にも載っていないかもしれない言葉なので、今回はこの言葉の意味をまず大ざっぱに解説しておく。

 この言葉が世に出てからもう20年以上たつのであるが、日本ではあまり関心を持たれていないせいか、まだ日本語の定訳がない。Leitの動詞はleitenで、英語ではleadである。つまり「リードする文化」ということで、「主導文化」という訳が使われることもある。それで構わないとも思うが、私はこれに「先導文化」という訳を付けて使うことにした。あえて異を唱えたと言うよりは、リードの訳に「先導」と船を御する「船頭」をかけてしゃれてみたのである。

 さて、先導文化とは何か。

 たいていの人は„When in Rome do as Romans do“「郷に入れば郷に従え」ということわざを知っているだろうし、それにかなりの普遍性があることも認めることだろう。誰でも異邦の地ではその土地の習慣に沿った行動をしようとするし、自分の価値観では納得のいかないことでも、早急に否定せず(否定するとすれば、それはそこの文化を軽蔑しているか、よほどの文化格差がある場合だろう)、なぜそのようなありかたが認められているのかと一歩退いて考えてみるはずである。「よそ者」が見知らぬ土地に来た時に、従うべきその土地の習慣や習俗を先導文化だと考えれば、それに従うということはあれこれ考えるまでもなく、それなりの妥当性をもっているとだれもが思うはずだ、そこには何も論争になることはない。

 しかし現在のヨーロッパでそういう健全な常識が乱れてしまったのは、想定を超えた量の移民・難民の到来による。この移動は、異分子が投入され、一瞬泡立つが、やがて消え、溶け合ってその文化に一味加わる、というように理想的な経過にはならなかった。質の面ではキリスト教文化圏にもちこまれたのは硬質のイスラム文化であり、原理的に簡単には融合できないものだったし、量の面では溶かし込むにはあまりにも多すぎた。当初は彼らを弱者であり、庇護者の余裕と民主主義の理想、そしていくばくかの帝国主義時代の反省をもって接していたヨーロッパ各国、とくにドイツの人々も、もはや限度を超えていると不満をもらす人々が増えてきた。特に自分たちこそ社会的弱者だと思っている人々からすれば、生活に不安のないエスタブリッシュメントたちは移民たちのことばかり優遇して、自分たちのことは見捨てていると怒っている。その思いを代弁するかのごとき主張をしたのが極右勢力だけだったとあって、昔なら左派が救うべきだった社会的弱者が極右と連合してしまう事態が起こり、ドイツでは封じ込められていた悪霊が這い出てきたかのような不気味な空気が漂っている。

 彼らの不満はストレートには「移民を受け入れるな」という圧力と行動になるが、そこまで直接的に言えず、「なんといっても移民・難民受け入れは正義であり、拒否できない」と思っている人たちにあっては、やや屈折した思想的表現をとった。つまり、「ドイツで生活したいのであれば、ドイツの精神的規範に従ってもらわなければ困る」ということである。この当然従うべき規範を彼らは或る人物が作り出した(次回解説する)Leitkultur、「先導文化」という言葉に見出した。ただし今の文脈では、正確に言えば、die deutsche Leitkultur――「ドイツの先導文化」である。

あらゆる国の顔を道で見ることができる

 ちょっと聞けばまことにもっともな主張じゃないかと思う人も多いだろう。たしかにそういう面もある。しかしこの主張はドイツ言論界では左派知識人を中心に猛烈な反発を受けた。先導文化など存在しない、そんなことを言うのは自国中心主義であり、単一文化主義であり、人種差別であり、民主主義者として恥ずかしい、というわけである。ここに生じた一連の論争が(die deutsche)Leitkultur-Debatte、「(ドイツ)先導文化論争」と呼ばれたのである。つまりあれこれの異質な習慣と価値観をもってやってくる移民たちに「我がドイツの歴史に根づいた文化的精神的規範に従ってもらおうじゃないか」という主張する人々と、そんな規範が存在することを認めず、文化的多様性を承認して受け入れるべきだと考える人々の間に交わされた論争である。内容としては理論的、学問的な「真理」を争う論争ではなく、イデオロギー闘争であると言える。だから「論争」の原語は「ディベート」である。

 そういうわけなのでこの論争の内容自体はそう高度なものではない。そのせいか大学の哲学者などは(ハーバーマスのような人を例外として)あまり関与する気はないようである。私がルール大学に行ってある教授にこの論争を調べるのが渡独の目的に一つであると言ったところ、教授は怪訝な顔をして、一言、「あんなのはもう古い」で終わりだった。してみるとドイツのアカデミストにとってはこの論争は本気で取り上げる値打ちのないものらしい。

 それでも私がこの論争を調べてみる気になった理由の一つは、私がヘーゲル研究者だからである…というのは上記教授もヘーゲル研究者であったので、この理由は十分ではない。もう少し言うと、たぶん私はこの思想現象のなかに、歴史の弁証法の発現をみているのである。もしかしたらそれは私の勘違いである可能性もあるが、検証してみる値打ちはある。

 基本的に、現在のヨーロッパで起きている反移民運動は、それが極右と結びつく限りで、非理性的現象である。しかし非理性にも存在理由はある。ヘーゲルは歴史において非理性が存在する必然性を認めた哲学者であった。彼の論理では非理性は理性自身が生み出す理性の分身、それどころか理性の現象形態の一つなのである。そもそも理性というものが非理性を産み出しながらその対立を突き詰め、その過程で非理性を克服しうる媒介者を産み出すことによって解決に導いていく弁証法の運動である。それこそ19世紀のドイツ哲学が生み出した知恵なのであるが、20世紀のドイツ哲学、例えばハーバーマスなどの言うことを聞いていると、基本的には非理性的なものを拒否しているように思えてしまうことがある。非理性を断固として拒否するのもまた理性には違いないが、そもそも理性にこだわることがかえってアンチテーゼとしての非理性・反理性を生み出してしまうこと、理性は非理性を克服する過程としてしか現実化しないことを洞察したのがヘーゲルである。うまくいけば対立が突き詰められたとき、反転してそこから解決策が出てくる。それがヘーゲルの発見した歴史的理性の運動である。

 もちろん、そのように万事めでたしに終わる保証はない。そもそも非理性の存在理由を認めるということは、同時に短期的にではあっても非理性が勝利することもあるということを認めるに等しい。実際、ドイツは20世紀にナチスを産み出した国であり、そこで非理性はその頂点にまで上り詰め、理性が死に絶えるという痛恨の経験をしているため、知識人が弁証法的な楽観主義を嫌悪しているというもっともな事情がある。現在の動きが、まかり間違って再び非理性の極みのなかで没落してしまうという恐怖をドイツの知識人ほど持っているものは世界にはいないのだろう。

 現在のヨーロッパの情勢は先が読めない。いったいこの動きが今後どう転んでいくのか、うまく見通せない。それについて「先導文化」論争を分析することで人々が何を望んでいるのか理解することはできないか、それがこのエッセイを始めるおおまかな動機である。大した成果もなく終わる可能性はあるが、「神は細部に宿る」ともいう。ヘーゲルも普遍的なものも最初は特殊的なものとして現れると言う。この特殊な、ささいな論争のなかに、もしかしたら、何か大きな真実が隠されているかもしれない。そんな予感が私にはある。

 また、この論争がドイツだけで起き、同じように難民問題で揺れているその他のヨーロッパ諸国で起きないのはなぜなのだろうか。それが分かれば、同様の論争が日本でも起きるか否かも予測できるだろうし、あらかじめ対策を立てることができるというメリットもあるだろう。興味のある方は少しの間どうぞ付き合っていただきたい。

(2018.10.17 黒崎剛)

第5話 研究ノート:「ドイツ連邦共和国における先導文化(Leitkultur ライトクルトゥーア)論争」連載開始にあたって

ケルン大聖堂の前の広場で、各国の国旗を描いている大道芸人。見物客は、自分の国の国旗の絵のところにコインを置く。ケルンは移民問題で緊張している都市のひとつである。

 ドイツにいる間、現在のドイツの状況をよくあらわす思想問題として調べて帰りたいと思っているものがあります。それは、ここ20数年断続的に起こっている„Leitkultur-Debatte“(「先導文化論争」)というものです。この論争は、簡単に言えば、移民たちに従うように要請できるドイツ固有の文化的原則die deutsche Leitkulturというものがあるのか否かをめぐる論争です。

 なぜヘーゲルとか弁証法とかを中心課題にしている私がこの問題に関心を持っているのかというと、それがまさに自分のその中心課題に関わっていると感じているからです。つまり、ヘーゲル論として論文を書いているだけでは本当はあまり意味はなくて、こういう個別問題にきちんと対応できるようになってこそ、哲学研究というのは本物だと思っています。

 ところが、いまのところ私はヘーゲル研究が終わっていないので、なかなかそれに着手する時間がありません。しかもこの問題はかなりジャーナリスティクな側面を持っており、些細なことをよく調べなければならず、即座に断言できるような結論を得られないこともあり、また相当時間も取られてしまうことから、興味はあってもなかなか手を付けられないでいたのです。

 しかしヘーゲル研究を仕上げてから、などと言っていると、いろいろな時事的問題について発言する機会をどんどん失ってしまいます。私は1990年以来、多くの時事問題について発言したくてうずうずしていたのですが、ひとまずヘーゲル研究者として認められてから、などと思っているうちに、自分の言いたいことなどもっとクレバーな人々がどんどん発言してくれるので、結局何も表明しないでやり過ごす、ということが多かったのです。それはそれで目前の地味な研究に専念できるから悪いことでもなかったのですが、同時に自分がやりたいことを人任せにしているようで、役立たずのような寂しさもありました。実際役立たずな人間なのですが。

 そこでドイツに来たのをいい機会として、アカデミックな体裁にこだわらず、研究エッセイとしてこの論争について自分なりの考察を披露してみる気になりました。月に1.2度、帰国するまで5~8回くらいで完結させようと思っています。たぶん予定通りにならないでしょうが。とりあえず、近日中に第1回目を載せます。

第4話 フランスの宮殿を見て思う

ヴェルサイユ宮殿。このずっと手前で火あぶりになっていました。

 前回、ちょっと経験しただけで妙に実感できた気がすることがあるものだという話をしましたが、この間フランスに行ったときも同じことをおもいました。パリです!非常勤暮らしが長かった私は一生見ることのない花の都かとあきらめていましたが、生きててよかった。

 ところが日本と同様、ヨーロッパも近年にない猛暑で、死なないように注意しなければなりませんでした。その猛暑の一日、ベルサイユ宮殿を訪れました。前売り券を買っていったにもかかわらず優に100分は王宮の前で並びます。さえぎるもののない広々とした空間で、史上最強と思われる太陽光線を贅沢に浴び、気分はなんだが王宮まで必死の陳情に来た結果、つかまって火あぶりになった貧民のようです。

 もう一つ、ルーブルにも行きました。ここも元王宮だったとのことで、豪華広大です。モナリザの前で、東洋人の女の子が柵を乗り越えて記念撮影をしようとし、笑顔でポーズをとったところを、警備員の女性につまみ出されていました。ポーズをとって笑顔のままで。

 この王宮を二つ見て、ある感想が湧いて出ました。つまり、「フランス人が革命を起こしたのは分かるよ~」というもの。

 私もフランス革命はとても好きで、詳しく調べてはきましたが、それはあくまで知識としてです。心から理解できなかったことは、なぜあの時代、サン・ジュストのような真正のテロリストが生まれたのか、ということでした。「王が死ななければならないのは、王であるからだ」というすさまじい彼の理屈はどこから生まれたのか?あのどこか人の好いルイ16世を眺めていて、そこまで残酷になれるものか?これまでは彼のことは若気の至りでロベスピエールにかぶれた酷薄なテロリストとしか思っていませんでしたが、この理屈を突然「そうかもしれない」と思えたわけです。

 私は炎天下で気力を失いましたが、当時のフランス庶民はもっと落胆していたはずです。私は退職後の資金がなくて、下流老人化必至とうそぶいていますが、それ以上に当時の彼らは生活の目途が立たず鬱になっていたはずです。そんな彼らにあの桁外れの王宮たちはどう見えていたのか。

 まさしく貧富の差のそのものの対象化であったでしょう。そこにすむ王はその生きた象徴とみえたでしょう。その存在そのものを抹殺しないと世の中は作り変えられない。その過激な思想はその時にあっては過激でもなんでもなく、人々が心から賛同することができるものだったのではないかと、腑に落ちる気がしたわけです。

 私はヘーゲルの歴史哲学を読むといつもわくわくしますが、そうした興奮を呼び覚ます理由は、あれが革命史観そのものだったからです。しかもフランス革命史観です。貧富の差の拡大が革命を引き起こすまで行くかどうかは歴史上の偶然です。かってはその自己矛盾のゆえに、資本主義社会は必然的に革命を引き起こすのだと言われて誰もが興奮していた時代がありましたが、現在のわれわれはもう少し冷静になって、貧富の差がいくら広がっても、それが革命という暴力に解決を求めたのは少なくとも近代世界においては例外的で、一つフランス革命があっただけだと言っていいでしょう。それだけにフランス革命は世界史上の特異例として、人類の本質を物語るものとして、我々の興味を引きます。この特異例を一つの史観にまで仕立て上げたのは、ヘーゲルの力技でした。それだけに考えさせられることはたくさんあります。例えば、ヘーゲルはフランス革命のテロリズムを肯定していたのか否か。

 「王は王であるがゆえにしななければならぬ」という感覚を西欧の思想家はずっと持ち続けていて、思想の世界ではテロルは必ずしも否定されませんでした。むしろ「革命とテロル」は重要な問題として常に哲学者たちの念頭にありつづけました。日本でも石川啄木は「われは知る、テロリストの悲しき心を」と歌っています。つい最近まで、テロルは言葉を奪われた人々の政治行動の一種とみなされ、半ば肯定されていたわけです。

 しかし9.11以来、テロは憎むべき残忍な無差別殺人にすぎないものの名称になり、政治的目的達成の手段としては完全に否定されました。それでもフランス人はフランス革命を誇りに思うのでしょう。では、フランス革命はテロリズムではないかと言われたら、フランス人は何と答えるのでしょうか。そしてそうした動向は歴史哲学にどのような影響を及ぼすのでしょうか。私も近いうちに答えを出したいと思っています。