研究ノート第1回 はじめに「ドイツ連邦共和国における先導文化(Leitkultur ライトクルトゥーア)論争」

マイヤー書店の新聞雑誌コーナー・移民関係の報道記事はどこかに載っている

 2018年もドイツは移民問題・難民問題に揺れている。私がドイツについて早々の6月、難民認定申請のさなか(却下され、異議申し立て中に)14歳の少女に性的暴行を加えて殺した男が逃亡先のイラクでつかまり、ドイツに送還されるという報道があったし、最近では8月26日にやはり難民申請が却下された後に滞在中だった男二人が35歳のドイツ人男性を刺殺する事件があり、それをきっかけにしてザクセン州ケムニッツ市で9月に大規模な反メルケル・反移民デモが起こっている。――こうした動きはドイツばかりではない。直近では9月に行われたスウェーデンの総選挙でも、移民制限を訴えた極右スウェーデン民主党が18パーセント近い得票を得て躍進した。――もっとも、こう書いた翌日の10月13日、ベルリンで極右に抗して大規模な反人種差別デモが起きたと報道され、私もドイツ社会のダイナミズムは健在であると印象づけられた。――と思っているところにさらに、10月15日にはバイエルン州議会選挙で、移民に寛容な政策を続けるメルケル与党のキリスト教社会同盟(CSU)が歴史的大敗、反移民政策を掲げる「ドイツのための選択肢」(AfD)が初めて議席を獲得、と右派勝利の報道である。こうなるとダイナミズムと言うより混乱と言いたくなる。

 こういう事態を詳細に追うことはこのノートの目的ではないのでこれでやめておくが、世界史のトップランナーだったヨーロッパ諸国が移民問題で大きくつまずいているさまがあちこちで見られる。ユーロに対する信頼も揺らいできており、EUが崩壊しかねないという緊張がみなぎっている。

 こういう事態が思想というものにどう跳ね返ってイデオロギー的に表現されるのかを分析するのが私の本来の仕事である。そして、そのきわめてドイツ的現われと言えるものとして挙げることができるのがLeitkultur-Debatteなのである。Debatteはディベート、「論争」のことであるからいいとして、Leitkulturはまだ独和辞典にも載っていないかもしれない言葉なので、今回はこの言葉の意味をまず大ざっぱに解説しておく。

 この言葉が世に出てからもう20年以上たつのであるが、日本ではあまり関心を持たれていないせいか、まだ日本語の定訳がない。Leitの動詞はleitenで、英語ではleadである。つまり「リードする文化」ということで、「主導文化」という訳が使われることもある。それで構わないとも思うが、私はこれに「先導文化」という訳を付けて使うことにした。あえて異を唱えたと言うよりは、リードの訳に「先導」と船を御する「船頭」をかけてしゃれてみたのである。

 さて、先導文化とは何か。

 たいていの人は„When in Rome do as Romans do“「郷に入れば郷に従え」ということわざを知っているだろうし、それにかなりの普遍性があることも認めることだろう。誰でも異邦の地ではその土地の習慣に沿った行動をしようとするし、自分の価値観では納得のいかないことでも、早急に否定せず(否定するとすれば、それはそこの文化を軽蔑しているか、よほどの文化格差がある場合だろう)、なぜそのようなありかたが認められているのかと一歩退いて考えてみるはずである。「よそ者」が見知らぬ土地に来た時に、従うべきその土地の習慣や習俗を先導文化だと考えれば、それに従うということはあれこれ考えるまでもなく、それなりの妥当性をもっているとだれもが思うはずだ、そこには何も論争になることはない。

 しかし現在のヨーロッパでそういう健全な常識が乱れてしまったのは、想定を超えた量の移民・難民の到来による。この移動は、異分子が投入され、一瞬泡立つが、やがて消え、溶け合ってその文化に一味加わる、というように理想的な経過にはならなかった。質の面ではキリスト教文化圏にもちこまれたのは硬質のイスラム文化であり、原理的に簡単には融合できないものだったし、量の面では溶かし込むにはあまりにも多すぎた。当初は彼らを弱者であり、庇護者の余裕と民主主義の理想、そしていくばくかの帝国主義時代の反省をもって接していたヨーロッパ各国、とくにドイツの人々も、もはや限度を超えていると不満をもらす人々が増えてきた。特に自分たちこそ社会的弱者だと思っている人々からすれば、生活に不安のないエスタブリッシュメントたちは移民たちのことばかり優遇して、自分たちのことは見捨てていると怒っている。その思いを代弁するかのごとき主張をしたのが極右勢力だけだったとあって、昔なら左派が救うべきだった社会的弱者が極右と連合してしまう事態が起こり、ドイツでは封じ込められていた悪霊が這い出てきたかのような不気味な空気が漂っている。

 彼らの不満はストレートには「移民を受け入れるな」という圧力と行動になるが、そこまで直接的に言えず、「なんといっても移民・難民受け入れは正義であり、拒否できない」と思っている人たちにあっては、やや屈折した思想的表現をとった。つまり、「ドイツで生活したいのであれば、ドイツの精神的規範に従ってもらわなければ困る」ということである。この当然従うべき規範を彼らは或る人物が作り出した(次回解説する)Leitkultur、「先導文化」という言葉に見出した。ただし今の文脈では、正確に言えば、die deutsche Leitkultur――「ドイツの先導文化」である。

あらゆる国の顔を道で見ることができる

 ちょっと聞けばまことにもっともな主張じゃないかと思う人も多いだろう。たしかにそういう面もある。しかしこの主張はドイツ言論界では左派知識人を中心に猛烈な反発を受けた。先導文化など存在しない、そんなことを言うのは自国中心主義であり、単一文化主義であり、人種差別であり、民主主義者として恥ずかしい、というわけである。ここに生じた一連の論争が(die deutsche)Leitkultur-Debatte、「(ドイツ)先導文化論争」と呼ばれたのである。つまりあれこれの異質な習慣と価値観をもってやってくる移民たちに「我がドイツの歴史に根づいた文化的精神的規範に従ってもらおうじゃないか」という主張する人々と、そんな規範が存在することを認めず、文化的多様性を承認して受け入れるべきだと考える人々の間に交わされた論争である。内容としては理論的、学問的な「真理」を争う論争ではなく、イデオロギー闘争であると言える。だから「論争」の原語は「ディベート」である。

 そういうわけなのでこの論争の内容自体はそう高度なものではない。そのせいか大学の哲学者などは(ハーバーマスのような人を例外として)あまり関与する気はないようである。私がルール大学に行ってある教授にこの論争を調べるのが渡独の目的に一つであると言ったところ、教授は怪訝な顔をして、一言、「あんなのはもう古い」で終わりだった。してみるとドイツのアカデミストにとってはこの論争は本気で取り上げる値打ちのないものらしい。

 それでも私がこの論争を調べてみる気になった理由の一つは、私がヘーゲル研究者だからである…というのは上記教授もヘーゲル研究者であったので、この理由は十分ではない。もう少し言うと、たぶん私はこの思想現象のなかに、歴史の弁証法の発現をみているのである。もしかしたらそれは私の勘違いである可能性もあるが、検証してみる値打ちはある。

 基本的に、現在のヨーロッパで起きている反移民運動は、それが極右と結びつく限りで、非理性的現象である。しかし非理性にも存在理由はある。ヘーゲルは歴史において非理性が存在する必然性を認めた哲学者であった。彼の論理では非理性は理性自身が生み出す理性の分身、それどころか理性の現象形態の一つなのである。そもそも理性というものが非理性を産み出しながらその対立を突き詰め、その過程で非理性を克服しうる媒介者を産み出すことによって解決に導いていく弁証法の運動である。それこそ19世紀のドイツ哲学が生み出した知恵なのであるが、20世紀のドイツ哲学、例えばハーバーマスなどの言うことを聞いていると、基本的には非理性的なものを拒否しているように思えてしまうことがある。非理性を断固として拒否するのもまた理性には違いないが、そもそも理性にこだわることがかえってアンチテーゼとしての非理性・反理性を生み出してしまうこと、理性は非理性を克服する過程としてしか現実化しないことを洞察したのがヘーゲルである。うまくいけば対立が突き詰められたとき、反転してそこから解決策が出てくる。それがヘーゲルの発見した歴史的理性の運動である。

 もちろん、そのように万事めでたしに終わる保証はない。そもそも非理性の存在理由を認めるということは、同時に短期的にではあっても非理性が勝利することもあるということを認めるに等しい。実際、ドイツは20世紀にナチスを産み出した国であり、そこで非理性はその頂点にまで上り詰め、理性が死に絶えるという痛恨の経験をしているため、知識人が弁証法的な楽観主義を嫌悪しているというもっともな事情がある。現在の動きが、まかり間違って再び非理性の極みのなかで没落してしまうという恐怖をドイツの知識人ほど持っているものは世界にはいないのだろう。

 現在のヨーロッパの情勢は先が読めない。いったいこの動きが今後どう転んでいくのか、うまく見通せない。それについて「先導文化」論争を分析することで人々が何を望んでいるのか理解することはできないか、それがこのエッセイを始めるおおまかな動機である。大した成果もなく終わる可能性はあるが、「神は細部に宿る」ともいう。ヘーゲルも普遍的なものも最初は特殊的なものとして現れると言う。この特殊な、ささいな論争のなかに、もしかしたら、何か大きな真実が隠されているかもしれない。そんな予感が私にはある。

 また、この論争がドイツだけで起き、同じように難民問題で揺れているその他のヨーロッパ諸国で起きないのはなぜなのだろうか。それが分かれば、同様の論争が日本でも起きるか否かも予測できるだろうし、あらかじめ対策を立てることができるというメリットもあるだろう。興味のある方は少しの間どうぞ付き合っていただきたい。

(2018.10.17 黒崎剛)