エッセイ003 自然の反乱

今年は花見もなしでした

 4月の終わりになってもコロナ禍は収束の気配を見せない。大学も閉鎖され授業も開講できない。大慌てで「オンライン授業」をする準備をしているのだが、普段デジタル・オンライン依存率を自覚的に高めないように努力し、いまだにスマホさえもたない(けっこう不便さは感じていますが)私はなかなか対応できない。だが店を開けることができない、収入が途絶えたという人たちから見れば、そんなことでぼやいているのはぜいたくな悩みでしかないだろう。それにしても、学生たちも胸を弾ませて故郷を後にして新しい世界に来てみれば、学校の門は閉ざされ、対面授業も、サークル活動も、アルバイトも何もない、自粛要請をまじめに守って下宿に閉じこもっているだけだとすれば友達もできない。これでは何のためにこれまで頑張ってきたのか分からなくなるだろうと心配になる。

 

 人が知らせてくれたが、ドイツではメルケル首相が第二次世界大戦以来の危機だと訴えて国民の団結を求める演説をし、感動を呼んでいるということだ。危機の時に重要なのは、普段の感情を殺して同じ方向へ足並みをそろえられるかだが、それにはいい指揮者が必要だと痛感する。優秀な船頭のいない国の民は哀れだ。

 

 では、哲学研究者というのはこういうとき何をしているのだろうか。

 例によって何か抽象的なことを論じているのだが、こういうときよく出てくるのが「現代文明の脆弱さ」を指摘して警鐘を鳴らすというやり方である。さっそくこの言葉を使って論じている新聞記事を見たが、しかし「現代文明の脆弱さ」という言葉で現在の状況を言い当てようとするのは弱すぎて言葉の力を感じない。現代文明が脆弱なのはわかりきっていることだから、それが何に起因しているのをイメージ豊かに可視化するもっといい言葉はないかだろうか。

 私は「自然の反乱」という言葉を思い浮かべた。「現代文明の脆弱さ」とは「資本主義」というシステムが自然のちょっとした振る舞いで簡単に機能しなくなることを言っている。では、ウィルスが蔓延すると、どうして資本主義は機能しなくなるのか。それは資本主義が自然が主体的に(人間の思惑とは経験なく)振る舞うことがあるという当然のことをごくあっさりと無視しつづけていることにある。自然が反乱を起こしたのだ、と言うと擬人的すぎるだろう、と思う人もいるだろうが、「現代文明の脆弱さ」と言うよりは、問題がよく見えると思う。

 この言葉はマックス・ホルクハイマーの『理性の腐食』(Eclipse of Reason)という本のなかの一章のタイトルにもThe Revolt of Natureとして出てくる。自然のrevoltとは、意訳すると、自然が人間にムカついて受け入れてくれなくなることである。興味があったら一読をお勧めする。この本はかなり難解な書き方になっているので、今はそれに触れないでおくが、要するに資本主義下の「理性」は自然から何を分捕れるかしか考えない腐敗した思考だと言いたいらしい。

 

 自然が人間に対して危害を加えるきっかけになるのは、①人間が自然のもつ目的(有機的な統一性)を無視して自分たちの目的を外から無理やり押し付けたときと、②自然の流れを加速させるほど人間たちが密集して生きている場合とである。困ったことにこれを本質として成立しているのが、今我々が放り込まれている資本主義というシステムなのである。

 資本主義の自然観というのは人類史上独特なものである。そこにはおよそ自分たちにとって母なる故郷だとか、自分を生かしてくれる根源的存在だとか、そういう感傷や畏怖というものがまるでない。ひたすら自然を量化し、数学的計算に落とし込んで、その計算の上にどれだけの富を引き出せるかを考える。それが近代的=資本主義的=合理主義的自然観なのだが、人間が嬉しがる富を産出するという目的は自然にとっては全く外的なものだから、その視点から自然を切り取って認識していれば当然人間にとって都合の悪い部分は認識の外になる。そして、自然に対して外的な目的を押し付ければ、自然の方が予期せぬ反応を返すことがある。しかし何か都合の悪いことが起きると、資本主義的人間は「想定外でした。遺憾なことです」といってやりすごそうとする。まことに遺憾なことであるが、その点ではみんな同類なので、実際それ以上の責任は追及されないことが多いことはだれもが知っているだろう。

 しかも資本主義は本質的に危機管理を嫌う。コストがかかるからである。ウィルスは出てこない、地震は起こらないということを前提にして社会を組み立てているから、一回起こったらすぐに社会システムがダウンしてしまう。

 それに「グローバル化」が加わるとさらに困ったことになる。そもそも人間の歴史はグローバル化の歴史だが、資本主義は市場の世界的統一に邁進しないと自己維持できないシステムなので、グローバル化を極端に加速させた。これが反乱を起こす自然にとってはまたとない援軍となる。資本主義以前は人の移動は限られていたので、人が病気を媒介するということは限られていた。しかし資本主義がその枠を打ち破った。EUの行っていた、国境の機能を廃して人の往来を自由にするという行き方は発展した資本主義国同士が当然とるべき道であったが、それが一瞬にして悲劇の原因となる。自然がたった一種の新型ウィルスを解き放っただけで、世界中の社会システムがマヒしてしまう。この原因を作ったのは人間の方で、自然ではない。たった一種の小さな小さな存在でもこれだけの危機を引き起こせる。自然の偶然でいま関東大震災でも起こったらもう終わりである。

 

 自然はコントロールできるもの、しなければならないものという前提で社会ができているから、それが予期せぬ振る舞いをしたときには全部想定外になってしまう。そんなとき個々人は社会システムを維持して死ぬか(病気が蔓延しても働きに行って感染する)、社会システムを崩壊させて死ぬか(経済活動を休止したら仕事もなくなって生きていけなくなる)という極端な二者択一を迫られてしまう。生き残れるかは運しだいだから、結局自然に任せることになる。

 

 コロナ禍をやり過ごすことができたら、もっと本気で「資本主義でいいのか」を考えた方がいい。1990年代に既存の社会主義国が崩壊したとき、「けっきょく資本主義しかないのだ」とあきらめてしまった人が多すぎた。社会主義でなくてもいいから、資本主義を超えることのできる社会システムを真剣に追求すべきだったのである。東北大震災のときの原発崩壊はそのために自然のくれたチャンスだったはずだが、しかし結局「反原発など現実的ではない」という声の方がどんどんでかくなっているようだ。私も大声で反論を出してこなかったことを反省している。もともと私は「ポスト資本主義」を自分の研究人生最後の課題とするつもりだったので、もう待ったなしだと覚悟している。

 

 ちなみにヘーゲルもこの点では責任がある。彼の哲学体系は、人間的理性が自然性を克服して精神的=理性的な社会的システムを作り上げるというモデルを見事に体系づけて提供している。ヘーゲル研究を通して社会に貢献しようとするなら、彼の哲学のすごさだけでなく、そのダメなところももっと伝える必要がある。

 

 さらにちなみに、このコロナ禍とまったく並行して『生命倫理の教科書』という共著の改訂をすすめていたのだが、この本の基調は、人間の体という「内なる自然」に手を入れたとき、まさに「自然の反乱」を招いてしまうのではないかという恐れにある。著者どうしの議論では、私は科学技術の否定的側面にこだわりすぎるという批判もあったが、その基調は押し通した。結局、自然に不用意に手を突っ込めば「予期せぬ反応」で自然は応答するということを強調したのは正しかったと思う。正しく危機感をあおることは必要である。

 

(2020.4.20 黒崎剛)