研究ノート第3回 ライトクルトゥーア/先導文化論争:政治家が言葉を発見する(1998)

ドイツといえば思い出すパン「ラウゲンブレッツェル」。ラウゲン液は劇薬指定されているので、日本では食べられないのが残念。

 

 バッサム・ティビによって世に送り出された「ライトクルトゥーア/先導文化」という概念がどうして学術的カテゴリーから政治的論争の中心概念へ転化したのかを探ってみると、主に右派政治家の政治的利用にその原因があるようだ。

 1998年7月にキリスト教民主同盟(CDU)所属の政治家 ヨルク・シェーンボーム(Jörg Schönbohm)が「ベルリン新聞」Berliner Zeitungで「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」„deutschen Leitkultur“ という言葉を使って移民の統合問題を論じたことが無署名の新聞記事に見える。そこでの引用に従うと、シェーンボームはこう言っている。「統合されることのできない外国人は帰ることを望むのかという問いに答えなければならない。我々は並行社会あるいは多文化社会が発展するのを認められない」(文献1より)。「多文化モデルはドイツのライトクルトゥーア/先導文化という課題を、序列の等しい平衡社会の利になるように認めながら、我慢して受け入れている。…だがドイツという国における基本的文化はドイツの文化だ。そしてそれと分かちがたく帰属しているのが憲法の基本的な価値基準なのだ」(文献2より)。「ヨーロッパの」と言ったティビを無視して「ドイツの」と言いかえたうえでこの言葉を使うのがドイツの右派政治家のやり方だが、その先鞭を切ったのがシェーンボームであるようだ。

  1. 「ドイツ的とは何を指すのか?――国家主義的保守主義者が自前の『先導文化』を定義する」Was heißt hier deutsch? Der Nationalkonservativismus definiert seine “Leitkultur”, Die Zeit Juli 1998. (https://www.zeit.de/ 1998/30/199830.assheuer_ schoenb.xml) 初回閲覧日2018.05.24.
  2. 「ライトクルトゥーアはもう使わない」 Schönbohm unzweideutig: „Ich vermeide Leitkultur“. n-tv, 20. April 2006. 初回閲覧日05.24.

 そしてこの記事で無署名の執筆者はすでにこの言葉を胡散臭いものとして叩いている。無名氏は第一に「同質の国民国家など危険なフィクション」だと断じ、「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」とは多文化主義と左派(ドイツを愛ささないで、消えてしまったプロレタリアートの代役を探しているような個人)を攻撃する「大砲」だとみている。彼によれば、移民問題で現実に混乱が起こっているのは確かだが、そうした混乱に対して秩序を要求するという臭いが彼の言う「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」から漂ってくる。ロマン主義的な国家論と同じで、シェーンボームは堅固で同質の普遍価値をそなえたドイツの「文化」と「国民」に「かすがい」となるものを求めている。彼は憲法を民族文化に沈めてしまっているし、憲法の人権主義的な核心という西洋的な普遍主義をドイツ的価値と同一視して統合しようとしている。その上でシェーンボームは「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」を持ち出すのである。無名氏は「政治がいったん前政治的な血族社会、『ドイツ的なもの』に同化させられるならば、『ライトクルトゥーア』は政治的な意味での同一化の基準となってしまい、自由と平等というあらゆる自己立法はその背後に斥けられてしまうだろう」と警告を発する。

 第二に無名氏によれば、シェーンボームも「憲法」を口にするけれども、彼の主張が憲法の自由権と背反しているのは明らかで、実際シェーンボームはそれを目の敵にしている。自由権を「ドイツのライトクルトゥーア」であいまい化しようとするとき、「価値」が引き合いに出されるのであるが、そもそもどのような価値が問題とされているのかが決まっていない。「公共の福祉」が何であるかも、誰がそれを執行するのかも分からない中で「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」に従えばいいと言うことは、ドイツの住人はドイツ的価値に従えばいいという同語反復を述べているにすぎない。そして結局持ち出されるのは「国民」(Volksnation)なのである。

 だから無名氏によれば、なぜシェーンボームが移民は「ドイツのライトクルトゥーア/先導文化」に従えと主張するのかも明らかである。SPDのオットー・シリー(Otto Schly)が「外国人にもキャベツの酢づけを食えというのかい」とからかったのは当たっている。つまり移民はドイツの共同価値体系の、固有の生活様式や習慣に適合せよということなのである。国籍と国民的同一性、民族的文化的共同性とを結合させよということなのである。このような「ライトクルトゥーア」主唱者に対して、結論として無名氏は「文化的同一性は指示されることはできず、形成されるだけ」と切り返している。

 ただしシェーンボームは確信犯として「ドイツのライトクルトゥーア」と言ったわけではなく、便利な言葉だと思って深く考えもせず使ったものらしい。2006年の新聞記事では彼はライトクルトゥーアという言葉で他人を指導することなど考えてはいなかったと弁明し、この言葉は「誤解を生みやすい」からもう使わないと宣言している(文献1)。 おそらくドイツの右派政治家は、最初はあまり深く考えずにこの言葉を「ドイツ的なるもの」を守るための言葉と自覚的無自覚的に読み替えて使おうとしたと思われる。

 この無署名記事のなかにはその後に展開される反論のあらゆる要素が出ていて、大変面白いものであるが、一般的にはと同じ日付で出たZeit-の編集者、テオ・ゾンマー(Theo Sommer)のごく短い「社説」(に当たるのだろうか)が有名である。タイトルが、「頭が語る、布は語らず――ドイツのなかの外国人統合は一方通行であってはならない」。

  1. Theo Sommer: Der Kopf zählt, nicht das Tuch – Ausländer in Deutschland: Integration kann keine Einbahnstraße sein Die Zeit vom 16. Juli 1998, Zugriff am 14. Mai 2017.(https://www.zeit.de/1998/30/199830.auslaender_.xml)初回閲覧日05.24.

 日本人には謎かけのようなタイトルだが、ヨーロッパ人には直ちに分かる。ゾンマーはいくつか事例を引いているが、その中の一つがそのタイトルの種になっている。――アフガニスタン出身のFereshta Ludinという女性の教師が、授業中にはイスラム教徒のあかしであるスカーフを取れという要望を拒絶した結果、バーデン‐ビュルツベルクの文化相であるAnette Schavanが彼女を教師として雇わないことを決めたという話である。当局はスカーフを「文化的境界線のシンボル」であり、「政治的〔態度の〕シンボル」と見なしたというわけである。Schavanに対する反応は複雑である。ゾンマーも彼女が他の場合には移民の権利を拡張することに貢献している傑出した政治家であることを認め、さらに社会民主党(SPD)と緑の党(Grüne)の要人も彼女を支持しているという。それにもかかわらず、リベラルの立場をとるならば、人が頭のなかに持っているものの方が頭に巻いているものよりも重要だということになるはずだと彼は文句をつけている。

 これが論争の序盤戦であるが、これだけみてもなぜドイツでこの論争が執拗に継続したのかがよく分からない。このような国家や民族と盾に取り、個人の自由や人権を制限しようとする右派政治家はどこの国でも多数派であるし、それに対して左派あるいは良心的知識人が反論するという図式も日本でもおなじみである。これを明らかにすれば、かなり面白い論争であることが分かってくるだろう。

 

(2019.03.07 黒崎剛)

注:写真は筆者が「ドイツ的」と感じるものをランダムに載せているだけで、内容とは関係ありません。