第5話 研究ノート:「ドイツ連邦共和国における先導文化(Leitkultur ライトクルトゥーア)論争」連載開始にあたって

ケルン大聖堂の前の広場で、各国の国旗を描いている大道芸人。見物客は、自分の国の国旗の絵のところにコインを置く。ケルンは移民問題で緊張している都市のひとつである。

 ドイツにいる間、現在のドイツの状況をよくあらわす思想問題として調べて帰りたいと思っているものがあります。それは、ここ20数年断続的に起こっている„Leitkultur-Debatte“(「先導文化論争」)というものです。この論争は、簡単に言えば、移民たちに従うように要請できるドイツ固有の文化的原則die deutsche Leitkulturというものがあるのか否かをめぐる論争です。

 なぜヘーゲルとか弁証法とかを中心課題にしている私がこの問題に関心を持っているのかというと、それがまさに自分のその中心課題に関わっていると感じているからです。つまり、ヘーゲル論として論文を書いているだけでは本当はあまり意味はなくて、こういう個別問題にきちんと対応できるようになってこそ、哲学研究というのは本物だと思っています。

 ところが、いまのところ私はヘーゲル研究が終わっていないので、なかなかそれに着手する時間がありません。しかもこの問題はかなりジャーナリスティクな側面を持っており、些細なことをよく調べなければならず、即座に断言できるような結論を得られないこともあり、また相当時間も取られてしまうことから、興味はあってもなかなか手を付けられないでいたのです。

 しかしヘーゲル研究を仕上げてから、などと言っていると、いろいろな時事的問題について発言する機会をどんどん失ってしまいます。私は1990年以来、多くの時事問題について発言したくてうずうずしていたのですが、ひとまずヘーゲル研究者として認められてから、などと思っているうちに、自分の言いたいことなどもっとクレバーな人々がどんどん発言してくれるので、結局何も表明しないでやり過ごす、ということが多かったのです。それはそれで目前の地味な研究に専念できるから悪いことでもなかったのですが、同時に自分がやりたいことを人任せにしているようで、役立たずのような寂しさもありました。実際役立たずな人間なのですが。

 そこでドイツに来たのをいい機会として、アカデミックな体裁にこだわらず、研究エッセイとしてこの論争について自分なりの考察を披露してみる気になりました。月に1.2度、帰国するまで5~8回くらいで完結させようと思っています。たぶん予定通りにならないでしょうが。とりあえず、近日中に第1回目を載せます。