第3話 豚肉と世界史

「世界一長いバーカウンター」の異名を持つライン河畔の飲食店街

 ドイツでは肉と言えば主に豚です。その豚肉が獣くさい。豚はあれほど体毛を失っているくせに、やはり毛ものであったのです。毛ものの肉が獣くさいものだということを実感しました。もちろん気を使って料理すれば消えるし、ドイツ流に扱えば大丈夫なのかもしれませんが、日本にいたときと同じ扱いで料理するとダメみたいです。この間日本食レストランで家人がカツ丼を注文しました。でてきたものは、ドイツ基準の量なのでしょう、カツが2枚。一人では食べきれないので、私も半分いただくことにしました。しかし、二、三キレ口にしたらその臭いにハシが止まりました。吐き気さえ催し、大部分を残してしまいました。評判のいい店ではなかったのかもしれません。日本人は私たちだけでしたので。ほかの方たちはあれを日本料理だと思って食べているのでしょうか。

 もしかしたらはじめて豚肉に接した数世代前の日本人も同じ体験をしたのかも知れません。彼らは臭いを香辛料を使って料理の過程で消すのではなく、肉そのものの臭みを抜くことを第一に考えたらしい、というのが面白い発見です。日本にいるとき利用していた或る組織の宅配では、たしか「米ブタ」というのがあって、ブタにコメを食わせて臭いの少ない肉にしましたというのを売りにしていたように思います。毛ものから獣くささを消すというのは、よく考えたら異常な発想なのかもしれません。これはもしかしたらご先祖様たちにとってブタ肉のというのもが新しい食べものだから考え付いたのでしょうか。それほど肉の臭さに耐えられなかったのですかね。

 古くから豚肉を食べているドイツ人では、毛ものは獣臭いものということを当然と承認しているのかも知れません。とはいえ臭いものは臭いと見えて、多量の香辛料を使ってソーセージなどにするのは周知のとおりです。

 ここで私ははたとひざを打ちました。子供のころ、歴史の授業で大航海時代の始まりを習っていた時、ヨーロッパ人はインドの香辛料、特に胡椒を求めて海に乗り出したと先生が説明してくれた時、思いました。「コショウごときで?」――そんなつまらないものを求めて生死をかけた航海に乗り出すなど、当時はまるで理解できなかったし、今の今まで本当に理解してはいませんでした。しかし大好きな豚肉をおいしく食べるために命を懸けてコショウごときものを求めてインドにまで行ったのかと思うと、歴史を動かす情熱というものがこちらで豚を食べてみて少しわかった気がしました。

 ところで、先のカツ丼を食べた店では、サバの塩焼きも頼んだのですが、これがまた魚臭くて食べられませんでした。魚というものは魚臭いものなんですね…。そこでまたひざを打ちました。もしワサビが日本で栽培できなくなったら?その場合、日本人もワサビごときのために波濤に身を投げ出すのではないでしょうか。「コショウごときで?」という四十数年来の疑問が解けたのかもしれません。

 この答え、間違っているのかもしれませんが、歴史を動かすものはコショウのような偶然的なものでもありうるのだということは、普段あまりに理論的に、普遍主義的に歴史を考える私などは、気を付けて反省してみることだと知らされました。

 まずい料理屋に感謝――はしません。

 

終わり。

第2話 埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景(その2)

・第2話「埼玉かデュッセルドルフかーー自然の風景・精神の風景(その1)」の続きです。

立派なドイツの集合住宅

 前回何が言いたかったのかというと、自然や植生に詳しくない私がラインを利根川だと思ってしまうのは、自然ではなく文化的なものの方が差異を認識しやすいという簡単な理由です。文化のような精神的存在がなければ、私のような人間は埼玉とドイツの都市の区別がつかなくなってしまうわけです。

 ドイツにいて感心するのは、住宅がまあ立派なこと。多くが集合住宅なのですが、日本のようにどんなにおしゃれにしてもその実態は無機質な箱型であるというのではなくて、煉瓦造りの家々は一軒一軒個性を持っていて、見飽きることがありません。そのうちの一軒がわが住居の近くにあるのですが、私は散歩に行くとよくその家の全景を眺めています。上の写真がそれです。

 ところで、ある日まことにそのようなドイツ的風景を楽しんでいると、うん?寺!?、寺ですよねこれは!

お寺のある北関東の光景?二つは10メートルと離れていない。

 というわけで突如として重厚なる古典的ヨーロッパ風景がなじみの北関東的光景に変わりました。何ものかと回って訪ねてみると、某「日本文化センター」が建てたお寺のようです。相当本格的で、「名刹」といった雰囲気です。こういう精神的存在があれば、一気にヨーロッパが日本になってしまうわけですね。

 こういうのを「精神」的存在というと誤解をまねくに違いないので、別な便利な言葉として「第二の自然」といってもいいでしょう。例えば日本人が愛する「里山」の環境。あれはヘーゲルの用語では自然的存在ではなくて、精神的存在です。天然自然には存在しないものが人間の自己意識的な努力によって実現しているわけですから。よく日本人は自然を愛する民族だなどと言われますが、あれもどうでしょうか。日本人が好きなのはこういう「第二の自然」であって、それは実は「精神的」なものです。

 私は、人間の手が加わらない自然という近代的概念を日本人は自覚で来ていないし、またそうした意味での自然に全く価値を置いていないように思えてなりません。そうでなければ、一方で「日本人は自然を愛する民族だ」などと言いながら、あれほどあっけらかんと自然破壊を続けることなどできるはずがないでしょう。そこにはなかなかの哲学的問題がありますので、またそのうちに。

 

第2話「埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景」おわり。

 

第2話 埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景(その1)

埼玉でしょうか?いいえドイツのお屋敷町

 ドイツの住居に来て電車にのり、車窓の風景を眺めていたところ、なんだか見たことあるなあという景色にしばしば出会いました。その風景が埼玉(私の故郷)や群馬(家人の実家)にそっくりであることにまもなく気づきました。というのも、ドイツの都市はどこも日本の都会と違って緑が多いので、車窓の風景はたいてい林、森、畑といったところなのですが、畑を田んぼと見立てれば、もうそれはそのまま埼玉の田舎的光景になるわけです。かのラインの流れるところが埼玉とはなんだ、と思われる方もいるかもしれないので、証拠写真も冒頭に挙げておきましょう。これは一軒家が立ち並ぶ、セレブ達が住まいする、ドイツのあるお屋敷町の光景で、埼玉の田園ではありません。

 それはライン河畔を歩いているときもそうで、「これはどこかで見たことあるなあ…」と思っていてまたはっと気がつきました。これはわが故郷を流れる利根川の光景ではないか。するとデュッセルドルフはドイツの埼玉なのか。

 しかし、そんなことを考えていた時に、油断していたら目の前に羊の群れです!埼玉には羊はいない(たぶん)。これはやはり異国の光景だと感じ入っていたところ、羊の群れが移動し、やがてライン川をはさんで向こう岸に「旧市街」とよばれるところを背景にしました。なんと見事な…ここはまさしくヨーロッパですね。もはや利根川の面影はありません。(もちろん利根川の光景もいいものですよ。)

ライン河畔

 実は車窓の光景の場合も同じことが起こっていて、窓の外にいかにも朱の煉瓦でできた家が見え始めると、途端にドイツになります。これはこの間フィンランドに行った時も同じことを経験しました。タンペレというフィンランド第二の都市だというのですが、行く途中の車窓はまさに埼玉・群馬・茨城がいっぱいでした。しかしそこかしこにムーミンにでてくるような明るい黄色や朱色の箱のような家がでてくると、ここは北欧なんだなあという感慨ががぜん湧いてきます。

 こう書くと、いかにも私が自然に関心がない人間であるかのように思える。実際そうなのですが、しかし実はヘーゲルもそんなことを言っています。自然というものはそれ自体では何物でもなく、「精神」の契機となって意味を持つのだと。

 ヘーゲルのこの発想は典型的な近代主義のようですが、そうでたらめでもありません。というのも人間の精神はそもそも精神的なものに強く反応するからです。自然に反応するのは実は相当文化的な訓練を積んだ人、自然というものに対して自覚的に向き合っている人たちだけです。たいていの人は、自然だと思って「精神」的存在に反応しているのです。この場合ヘーゲル的な意味での「精神」というのは、心の在り方という観念的なことではなくて、人間が自然を加工してつくりあげた一切のものを指すと言っておけばいいでしょう。ヘーゲルのいう意味では目の前にあるお饅頭一個も「精神」の現れです。これに対して自然そのものというのは近代になって初めて人間が自覚した存在で、「客観的なもの」を自分の主観性に対する存在だと意識できるようになって初めて理解できる存在です。だから例えば日本人は明治になって「登山」という概念と習慣が輸入されるまで、「山」を一顧の自然とみて、そこで楽しもうなどという発想がなく、山は生活の場であり、信仰の対象でしなかったわけです。

(続く)

*続きはこちら→第二話 埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景(その2)

 

第1話 黒い乗客と主体性(その3)

・第1話「黒い乗客と主体性(その1)」

・第1話「黒い乗客と主体性(その2)」の続きです。

ライン河畔。

 ドイツ語には「社会」にあたる言葉が二つあります。ゲマインシャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)です。前者は「共同体」、後者を「社会」と訳すとニュアンスが伝わるかもしれません。ゲマインシャフトは家族のような団体を指し、ゲゼルシャフトは、例えば近代の「市民社会」と言えばdie buergerliche Gesellschaftであって、決して die buergerliche Gemeinschaftとは言いません。つまりどうやら日本社会はゲゼルシャフトであるはずなのにゲマインシャフト的に運営され、ドイツを含む西欧社会ははるかにゲゼルシャフト的だと言えそうです。どちらがいいのかは言えないのではないかと思われるかもしれませんが、私は本来の意味で成熟した「社会」の在り方はゲマインシャフト的であるべきだと思っています。そういう意味では日本の方が本来の社会に似ているのですが、似ているのは形だけで、その社会性は近代という試練にまさにこれからも耐えなければならない原初的な共同性、これから先になってゲゼルシャフト的威力にさらされてどんどん解体されていく共同性です。その意味で日本はまだ真の社会ヘの出発点からそんなに遠くないところにとどまっていのだと言えます。西欧はそこから進んですでに共同体的性格をどんどん解体していって、最終的な共同体への通過地点としての市民社会にまですすんでいると言うことができましょう。これはまさに弁証法的過程ですね。

 しかし私たち外国人は、ドイツにやってくると、こうした主体性文化に自分を合わせることを求められ、ぐずぐずしていると60ユーロの罰金をくらわされるわけです。そうはいっても私も慣れ親しんだ甘え文化からそう脱却できそうもありませんし、どうせすぐ帰るのだからということで、せいぜい「異文化交流」のレベルにとどまってもいいわけです。

 しかしながら、このことは、現在ドイツで大問題になっている移民政策にもちょっとかかわっていて、そうなると話は異文化交流などという甘い関係ではすみません。もし私が1年間滞在ではなく、10年とか15年、あるいは永住するつもりで来ているのだとすればどうでしょう。私は日本の甘え文化を捨て、西欧流の主体性文化に同化することを迫られるでしょう。昔から「郷に入れば郷に従え」、When in Roma, do as the Romans do(ローマにいるなら、ローマ人のようにふるまえ)ということわざがあります。一般論としては誰もそれに反対しないでしょう。しかしここで、私がたとえドイツ人になったとしても、捨てたくない日本人としての魂がある、などと言い出したら、ドイツ人はどう思うでしょうか。

 二通りの反応が考えられます。そういう態度を「一社会の中にいろいろな文化があるのは素敵だ」と許容する場合(多文化主義、Multikulturalismusと言っていい)と、「ドイツに来たからにはドイツのやり方に従うべきだ」という場合(統合Integrationを第一とする立場)です。思想的には、この対立が現在のドイツのやっかいのタネになっています。この問題を巡っても論争も起きました。Leitkultur Debat(先導文化論争)と言い、1990年代後半からいままで断続的に続いていて、終わるのかと見えたら再燃しなかなか収束する様子が見えません。これについて私はこの滞在中の研究課題に挙げているので、このHPのどこかで考察することにして、最初の無知話はここまで。

 いやあ~、いきなりこんなパンチを食らって、いいレッスンだったと思います。自分が研究課題としてもっていったことを身をもって体験できたわけですから。でもレッスン料は高すぎましたね。

 

第1話「黒い乗客と主体性」おわり。

 

第1話 黒い乗客と主体性(その2)

・第1話「黒い乗客と主体性(その1)」の続きです。

罰金60ユーロの警告文。約7800円。

 二度目は私の在外研究受け入れ機関であるルール大学へはじめて行く途中でのこと。ルール大学はボーフム中央駅から乗り換えていくのですが、ここで私は間違えてルール大学と反対方向へ乗っていました。そこで検察に見つかり、逆ですよと注意される。そこまではダンケシェーン(ありがとございま~す)なのですが、切符を調べられたところ、これはダメだといわれました。切符はネットで買っていたのですが、ボーフム中央駅までしか有効ではないもので、それから先は切符を買い足さなければならない。つまり東京駅まで有効だが、23区内には行けないといったような切符を私は買っていたわけですね。ところが今度の検察はなかなか物腰が柔らかく、いろいろ説明してくれた上で、ドイツ鉄道にメールを出せという。なんだ、なかなか親切じゃないかと思っていたらそうではなくて、今回はパスポートを持っていて(前回は所持していなかった)それを提示したので、正体をつかまれていて、逃げられる心配がないわけです。それで即罰金とはならなかったらしい。そこで言われたとおり後でメールを出すと、返事が郵便で来て、けしからんやつだが、我々の特別の「好意をもって」、30ユーロにまけてやろう、という内容でした。払うときに10ユーロも手数料を取られたので、結局ひと月の間に100ユーロを払ったことになります。合計約1万3000円でした。

 これがドイツに来ての最初の衝撃でした。あほですか、という声が聞こえてきますね。実際そこでようやくググってみますと、この検札についてはあちこちで注意喚起されていますので、私の無知ぶりが際立つ事件となりました。でも、そのおかげで実感をもって体験できたのが、日本とドイツ(というより西ヨーロッパ)の基本的な「哲学」あるいは、根底的な「文化」のあり方の違いというべきもの――「主体性」の違いです。

 日本の鉄道ではこんなことはおきません。なぜなら間違いが起きるのを未然に防ぐという無意識の思想があるからです。まず切符を買わないでホームに行くことができません。私はこれまでそれは無賃乗車を防ぐシステムだとばかり思っていましたが、ドイツ流と比較すると、「罰金を払わなければならないような間違いをあらかじめ防ぐのだよいことだ」という哲学が暗黙のうちに含まれていることがわかります。さらに電車に乗った後でも、切符をもっていなかったり、料金が足りなかったりしても罰金を払わせるという発想がありません。ただ不足分を徴収されるだけですし、わたしたちはそれを見越して電車の中で切符を買おうと思って乗るということさえできます。(ただしドイツでも車内に自動販売機が設置されています。とはいえ検札が来た時点で買っていなければ、問答無用で罰金です。)ドイツ、正確に言えば、フランスも大体にような制度だそうですから、西ヨーロッパの発想はまるで違います。あくまでも自己責任なのです。日本のやり方は、イメージとしては母親が子供をくるむように保護するという発想ですが、西欧のやり方は各人の主体性に任せて、失敗したら責任を取らせるという哲学です。よく言われるように日本は「甘え」を許し、西欧はそれを排斥します。西欧のやり方で各人に求められているのは「主体性」です。何事も各個人の自発性、倫理性に基づいて行われることが社会に生きる個人のあり方だという近代の思想が制度化されています。日本のやり方は、主体性を個人に求めるのではなく、社会全体がそれを体現すればいいという発想です。西欧の個人主義と日本の社会主義(政治制度としてのそれではない)がよくあらわされています。

(つづく)

*続きはこちら→・第1話「黒い乗客と主体性(その3)」

 

第1話 黒い乗客と主体性(その1)

これが「ラインバーン」。だいたい地上を走る地下鉄。

 ドイツに来て何が困ったかといって、日々使う鉄道の乗り方です。切符の買い方からして分からない。日本でならば、どこにいっても駅の切符販売機の上あたりに丁寧な路線図が掲げられていて、自分の行き先さえ知っていれば、いくらの切符を買えばいいかわかる。そういうのがとても親切なことなのだとはドイツに来てはじめて分かりました。駅には赤い自販機がおいてあります。路線図の代わりにこの機械には目的地を打ち込む欄があり、それでいくらの切符を買えばいいかわかる。…はずなのですが、機械にプログラムされた行先は限られていて、最初のうち、私のすみかの最寄駅の名を入れてもなにも出てきませんでした。あとで分かったことですが、ドイツではある一定の区域内では一律の料金をとるために、その区域内の地名はいちいちプログラムされていないのです。そういうことを予備知識としてもっていれば何も問題はないのでしょうし、その程度のことは前もって調べておくべきなのでしょうが、スマホを持たない、パソコンを持ち歩くのを面倒がる私にはその場では調べようがありません。駅のインフォメーションで聞いても要領を得ないので、最初のうちは券売機の最初にでてくる2.8ユーロの切符を買って乗っていました。それは結果として正しかったのですが、無知ゆえの異文化体験が間もなく始まろうとしていたのでした。

 ちなみに情けないのは私だけではないのです。赤い券売機の前で途方に暮れる日本人らしき青年を何度も見ています。スマホ所持の彼らは事前にちゃんと鉄道の乗り方を調べてきているはずですが、それでも実物を目の前にすると困惑するものらしいです。そんな時私はそっと近くのベンチに腰掛けます。機械の操作をあきらめた若者はやがて私に気づき、Entschldigung!(すみません)と知っている数少ないドイツ語単語で話しかけてきます。私が日本人であることを確認するとみんな喜びを表して、切符をどう買っていいのかわからないんですう~と訴える。私は優しく教えてあげます。教えている当の本人がよくわかっていないことは秘密ですが、私もときどき役に立つでしょう。

 さて、ドイツに来て間もないある日、私はドイツでも大人気のIKEAにいって、生活道具を買い整えていました。なにしろ資金に乏しいので、1ユーロでも安いものを探す。希望の金額から1ユーロでも高いものは買わないという徹底した倹約ぶりを発揮して、どうしても必要なものを最安値で買って帰る道でした。ああ今日もいい倹約をしたなあと満足して、買い物疲れか、切符を買うのを忘れて電車に乗ってしまいました。

 ここでドイツの電車の乗り方を説明しておと、ドイツには日本でいう改札というものがありません。ではどこで切符を買って乗っているのかを調べるかというと、私服の検札の係りが時々見回って、切符を確認するのです。不正が発覚すれば、60ユーロ(約7800円)の罰金です。検札にはめったに出くわすことはないのですが、私はまさに切符を買うのを忘れたその時、初めて彼らに遭遇いたしました。これが私の運命なのでしょう。ドイツ語でのやり取りは困難を極め、相手は英語を解さないらしい。ここで私はまだ勘違いをしていて、事情を話し、正規料金を払えばよい、と考えていました。しかしそんなことはありえない。違反は違反、どうしたって違反で、罰金。1ユーロを惜しむ買い物をした後で、60ユーロ。

(つづく。)

*続きはこちら→・第1話「黒い乗客と主体性(その2)」

        ・第1話「黒い乗客と主体性(その3)」

 

ググらない生活

 2018年4月から、一年間ドイツに研究滞在することになりました。ろくろくドイツ語も話せないのになぜ?とは自分でも思うのですが、ドイツ語で話すということより、ドイツで呼吸することを重視したのだと言うしかありません。

 私のドイツの哲学を研究対象としてはいるものの、ドイツの政治・経済・文化についてはかなり無知です。しかし無知というのはときには知にまさるのでは?誰もがネットにすれば知りたいことを知ることができる時代にあって、無知のまま日々異文化にさらされ続けることはそれ自体が大した体験になるかもしれない。そんなことも知らないのか、と笑われるところに生まれる知もあるでしょう。

 私はわからないことがあってもグーグルで調べずすぐに人に聞くので、身近な方から「そういうのは『ググれ!カス!』って言われるんだ」と人間でないかのような扱いをされますが、面倒くさがりなので分からないことがあっても、すぐにググらない。哲学の世界ではソクラテスの無知の知というのが認識の出発点だとたたえられています。それならば、私も無知な人間は何に驚くのかということを率直に報告してみるとしましょう。

つづく。

論文紹介: 現代社会を理解するための『大論理学』注釈(3) 第一部・『第一書 存在』――その1・注釈1と第一章「学は何を始元としなければならないか」および「存在‐無-成」への注釈」

所収:「ヘーゲル論理学研究」第22号(ヘーゲル論理学研究会編、2016.11.30)73-125頁。

黒崎剛著

PDF(現代社会を理解するための『大論理学』注釈3)

論文紹介: 現代社会を理解するための『大論理学』注釈(1) 序論と緒論――ヘーゲル哲学を読む意義はどこにあるのか、そして、ヘーゲル論理学とは何であるのか――

所収:「ヘーゲル論理学研究」第20号(ヘーゲル論理学研究会編、2014.11.30)75‐122頁。

黒崎剛著

 

本論文は上記タイトルのとおり、「序論と緒論」というのが正しいタイトルなのであるが、雑誌に掲載されたオリジナルでは「序文と緒論」とタイトルを誤ってつけている。それを含め、数字の間違いなど、誤解を生む明らかに間違っている箇所を訂正したものをPDF化してある。もちろん、内容には何ら変更はない。

PDF(現代社会を理解するための『大論理学』注釈1)