第8話 クリスマスに対応する

アーヘン市庁舎までのクリスマス・マーケット

 クリスマスはその起源が何であれ、その思想的核心となっているのが、「イエスの生誕」です。である以上、それを抜いたクリスマスは、「釈迦の誕生を抜いた花祭り」、太宰治を抜いた「桜桃忌」、チョコレートのないチョコケーキと同じで、本来想像もできないはずですが、この想像もできない離れ業を日本人はここ数十年やってきました。そのために哲学に興味を抱く傾向をもつ日本人にとって、クリスマスは付き合うのが難しい行事のひとつとなっていました。哲学が好きな人というのは元来原理主義者で、思想的に潔癖な傾向をもっていますから、ある行事からその思想的核心を抜いて楽しむなどということができないのです。

 そのため、私のような、まさしく哲学的性癖をもって生まれた日本人は人生において3度、決断を迫られます。

 第一に幼少期。クリスマスケーキを拒絶するか?哲学少年にとって人生最初の試練です。私の場合、小学生の頃ですが、疑問を抱きつつ、いただきました。なぜなら、その昔、やっと不二家が生クリームのケーキを出したころ、それは特別なお菓子で、クリスマスの時にしか奮発してもらえないものだったからです。いつもはバタークリーム。これはこれでおいしいのですが、初めて口にした生クリームの、あの身をうち震わせるような感激を経験した子供にとっては、選択肢はないので、悩みもなし。

 第二に青年期。青年はことに潔癖性を尊ぶゆえ、問題は深刻化します。特に哲学的青年にとっては恋人ができたとき、12月24日(25日はどうでもいいと言うところが、思想的に支離滅裂なところ)をどう過ごすかが人生最大の悩みでしたか。思想を採るべきか、性を採るべきか?女性の場合は、哲学青年でも、「イベントとして捉えている」という分かったようなわからないような理屈で難なくスルーしている人が多かったようです。男の哲学青年は全国的に恋人がいない率が大変高い傾向にあって、問題自体が発生しないという人も多かったようです。お前もそうだろう、と言われそうですが、ほぼその通りかな。とはいえ、どうしたらいいのか悩むことはなかったわけではないです。まあそんなときはクリスマスを祝うふりをして、心のなかでは平時と変わらず様に過ごしました。

 第三に、家庭をもった時。特に私のように、複数の女児をもった場合。これはもう無理です。それこそ哲学青年女性のように「イベントとして捉えている」とスル-するしかありませんね。

 日本にいるときはそれで何とかなっていたのですが、ドイツに渡るとちがってきます。 ドイツにいくらイスラム教徒が増えても、キリスト教徒が教会に行かなくなっても、やはりクリスマスは生活の核心となる重要な行事です。なにしろ彼らは1年の6分の1をクリスマス関連で過ごすのです。

 その最たるものが「クリスマス・マーケット」(ドイツ語ではWeihnachtenmarkt)と呼ばれる市です。これは11月に入ると始まって、基本的に12月23日、長いところでは(私の住んでいるデュッセルドルフがそう)30日、または正月明けまでやっています。実は私、ヨーロッパにこんなものがあるとはこちらに来るまで知りませんでした。どうやら世界的に有名で、このマーケットの発祥がそもそもドイツだということで、外国からのツアーまであって盛況だそうです。

 まずいことに(うまいことに?)私の住む近隣にアーヘンとケルンがあって、どちらも世界5大クリスマスマーケットに数えられるのだそうです。話のタネにでもしようという気持ちで、まずアーヘンの方へ行ってみました。要するに日本でいう「縁日」と遊園地と博覧会を重ねあわせたものです。飲食ととともにいろいろな工芸品が制作・展示されるので、下戸の私はもっぱらマイスターたちの作品を楽しみました。すっかりはまってしまったものもあるのですが、それはまたそのうちに。昼間からもやっていますが、夜になると華麗な電飾がどっさりともされ(この時ばかりはドイツ人の環境保護意識も跳ぶらしい)、無数の屋台が立ち並びます。屋台も基本的には簡素な造りなのですが、中世風の家を模したかわいい(←私が言うと気持ち悪いでしょうが、耐えてください)つくりで、しかもアーヘンやケルンの場合には大聖堂や市庁舎という堂々たる大建築をバックにしていますので、まさにメルヘンの世界(←もう一度耐えよ)です。

デュッセルドルフ会場の観覧車

 かくしてクリスマスに浸りつつ、今自分が置かれている状況を考えてみました。

 私が置かれていた状況は誠に原理主義者としては恥ずかしいものです。これがクリスチャンならば、どんなにクリスマスでどんちゃん楽しんでも、最後にキリストの生誕のお祝いだと言ってまとめて自分の良心と折り合いをつけることができます。では非-クリスチャンはどうするか。やはりここはあきらめてキリスト教に帰依するしかないのか。

 宗教的支配者が民衆にその信仰を浸透させようとする場合、日本の仏教用語を使うと、「荘厳」という作戦をとります。寺院や像を華麗に飾りたてて、民衆の度肝を抜き、ありがたやと思わせるやり方で、もちろん宗教とは関係なくても権力者が壮麗な王宮などを立てるのも同じ作戦です。で、たいていの民衆はその通りに度肝を抜かれておとなしくなってしまうのです。現代でもこの作戦はありますが、今はそれとは違ってある種の雰囲気というものが「荘厳」に代わって通用するようです。それがつまり、例えばクリスマスのロマンチックな雰囲気心を味あわせて、キリスト教徒になる垣根を低くするなどといったことにあたりますか。

 しかし日本人は手ごわい敵で、どんなにクリスマスに酔ってもクリスチャンになろうなどとは思わず、クリスマスが終われば盆暮れ正月ですわとすぐ気分転換してしまう人たちです。原理主義者としては、若い頃はこの手の人たちの節操のなさが耐えきれなかったのですが、今では評価が変わっていて、宗教というものをかのようにスルーする力というのは、現在の人類のなかではなかなか貴重なのではないかと思えてきました。原理主義と宗教が結びつくと、時々とんでもないかたくなな思想が生まれ出てしまうことを私たちはよく知っています。もともと一神教は不寛容さと隣り合わせの思想ですので、それが悪い面で出れば、あの世に天国を示すことはできるが、この世に地獄を現出させることがあります。そんなことを思ってみると、世界の宗教行事を「イベント」と割り切って楽しむというのは、実はいまいちばん賢い行き方で、これからの人類の宗教に対する態度のヒントになるのではないかと思えてきました。一神教から多神教への回帰というより、初期ローマ帝国のような、宗教的寛容の精神がまた時代の要請になるのかもしれない。そうなると、あらゆる宗教行事をイベント化して流れに乗るという日本人のでたらめぶりがこれからの人類にとって正解かもしれないなとさえ思えてきました。日本でのここ数年のハロウィンの突然の普及ぶりを見ていると、そこまで寛容になれない気もしますが、私の場合、不覚にもクリスマスに浸ってしまったおのれを浄化するために、4月には花祭り(釈迦の生誕祭)をお祝いしようかと思っています。

(2019.1.23 黒崎剛)