エッセイ002 堤防が好き

川に現れたふしぎなもの

 今年2019年を終えるにあたって、ドイツから帰国したことを除き、特に思い出されることと言えば10月の台風である。過ぎてから1か月以上たっても、我が家の目の前にある川にはまだこんな光景が残っていた。何かのオブジェのようだが、川の水位を測る鉄棒に流れてきた草が巻き付いてできたのである。あまりに珍しいので紹介したくなった(今はもうありません)。隣の堤防と比較してもらうと、すれすれまで水が来ていたことが分かるだろう。よく決壊の越水もしなかったものだ。改めて何ものかに感謝せずにはいられない。この川は普段は水量がごくわずで広大な河川敷が広がっているのだが、台風が来ると一気に増えていろんなものが流れ込んでくる。(今年は近くに遺体まで流れてきた。どなたかは分からないが、ご冥福をお祈りします。)堤防の上と河川敷は夏の間にジャングルとなり、堤防上は行政が刈り取るのだが、河川敷の方は一度の増水できれいさっぱり草が枯れる。この自然の草取りは秋の風物詩のようである。

 我が家は川の堤防の下にあって、2階はその堤防と同じ高さにあり、川の流れがよく見える。台風当日、朝の内にすでに濁流が超えてきそうになっていたので慌てて豪雨のなか子供連れで歩いて行ける避難所を探した。何とかたどり着き、コンクリートの床に新聞を引いて寝た。それでも安全な建物で一夜すごせたのは幸運だった。

 私は「堤防」が好きである。生まれ故郷の町は、むかし、利根川の堤防が水に敗れ決壊して沈んでしまったことがある。たまにそんなことはあっても、あれはいつでも踏ん張って我々を守ってくれているのである。堤防、とか、防波堤、とかを使った比喩がたくさんあることを考えれば、我々が無意識のうちでいかにそれを頼もしく思っているかわかるだろう。一方で堤防の建設が自然破壊の象徴とみなされることもあるが、それは良くも悪くも堤防が人間の営みと自然の脅威との接点に存在するからである。人間の祖先たちは農業をする以上、かならず堤防を作った。堤防は文明の基本とも言える。

 今回、目の前の川があの状態で越水しなかったことで、普段は反権力志向の私も堤防や流水を管理していた行政にも感謝し、ちゃんと市民税も都民税も払うよという殊勝な気になった。いま政治家が税金を使った「桜を見る会」にお友達を招待していたとか、偉い人が大嘗祭とかを税金でやっているとかの話題がだされているが、堤防保全のようなことに使ってくれるのならだれも文句は言わない。億の税金を使うのなら、公開できない秘事にではなくて、災害にあった人たちや首里城再建にでも出せばいい。簡単な事だけど、優先順位を間違える人が、特に政治家には多いような気がする。

(2019.12.28 黒崎剛)