第6話 車内助け合い運動ドイツ版

こんなステップですから、ベビーカーや車椅子は大変

 ドイツにいて、「ここが市民社会のいいところだな」と素直に思えるのは、電車内で自然に市民同士が助け合っているところを見るときです。

 私はRheinbahn(ライン鉄道)というのを足代わりにしています。地下鉄ですが、平気で地上を走ります。しかし地上の駅にとまるときは、構造上ステップがかなり高くなり、ベビーカーや車いすでは昇ることができません。で、どうするのかというと、その時周りに居合わせた人たちが担ぎ上げたり降ろしたりするのです。少なくともドイツ人たちの間ではそれは特に「小さな親切」をしているという風でもなく、する方もしてもらう方もどちらも当たり前のことを当たり前にしているという感じです。

 それに街中では車椅子の人をよく見かけます。特にドイツに車椅子生活者が多いというのではなく、車椅子で出かけることのできる環境があるということでしょう。実際、ただ一人電車を待っている車椅子の人を、周りの人が当然のように持ち上げ、当人も当たり前のように持ち上げられているところも見かけます。もちろん「ダンケシェーン!」って言いますが。

 ときには理解できない光景も。或る初老のご婦人が座っているところへ、別なご婦人、それも座っている人と年恰好がほとんど同じとしか見えない人が来て、「そこに座らせてくれるかしら?」と言うと、座っていた夫人は不服そうな様子もなく、「どうぞ~」とさっさと立ちあがりました。日本だと譲った方は何となくバツが悪くて、離れたところに行ってしまうことが多いですが、立ったご婦人は何事もなかったかのように、すぐそばに立っており、座った女性も、何にも気にすることなくすましています。教えてほしい、あなた方はなぜ入れ替わったのか?

 外国人組はそのような有様を見てやはり感心する人も多いようで、この間は明らかにドイツ系ではないと見える或る青年が、女性のベビーカーのハンドルを握って、意気込んでいました。「次の駅に着いたらオレが下すぜ!」とやる気満々というところ。想像をたくましくすると、彼の母国ではそのような助け合いがなく、ドイツに来て何度かそういうところを私同様感心して張り切っていたのではないでしょうか。そばにいる赤ちゃんの母親らしき人も、まかせてしまって別に何の不安も感じていない様子でした。日本だったら、見知らぬ人にベビーカーのハンドルは取らせないでしょう。

最近、こんな記事をネットで読みました(記事自体は古いものですが)。電車の中で老人が席を譲らない若者に対して怒ったところ、こんな書き込みがネット上であったとか。

 「…だが、ネットでは若者に肩入れする声が目に付く。〈なんで上から目線で命令するのか〉、〈まさに老害〉、〈他人の善意を要求するのは無作法〉といった感情的な意見が並んだ。あるネット投票でも、今回のトラブルに関して「老人が悪い」が57%、「若者が悪い」が43%と“若者擁護”が上回った。/しかも、この若者はこんな書き込みもしている。/〈私は優先席を譲りません!!なぜなら先日、今にも死にそうな老人に席を譲ろうとしてどうぞと言ったら『私はまだ若い』などと言われ、親切な行為をした私がバカを見たからです。今後とも老人には絶対に譲りません〉。」(『「優先席譲れ!」で大炎上 けしからんのは若者か老人か』、「産経デジタル」、2016.12.7)

 こういう若者は日本だから生きていけるのでしょうね。身についていないことをやって失敗すると、簡単に傷ついてしまい、そのことを愚痴ると、「分かるよ~」と頭を撫でてもらえるんですから、いい社会だと思います。自分の習慣と化した市民的徳を実行するのではなく、社会全体でそうするのがいいとされているから、というわけでなんとなく行い、やれば社会からほめてもらえると思い、ほめられないと拗ねてしまうというのは、前にも述べましたが、日本が共同体的ではあっても、市民社会的ではないことの現われなんでしょう。

 もっとも、ヨーロッパだからと言って、どこでも席を譲っているわけではなさそうです。イギリスの地下鉄には優先席がちゃんともうけられています。それにドイツ全域でそうなのかも分かりません。感心して結論を出す前に、もう少し観察してみることにします。

 ちょっとドイツを持ち上げすぎたので言っておきますと、日本人の方がいいこともありますよ。例えばタバコのポイ捨て。日本ではここ20年くらいの取り組みでだいぶ減りましたが、ドイツ人はやりたい放題としか思えません。いまだに火のついたやつを古い映画のシーンみたいに捨てている人を良く見かけます。石造りの家が多いので、そう簡単には火事にならんのでしょうが。そうそう、この間私の娘が道に吸殻が多いのに気が付いて数え始め、少し行っただけで100本を超えてしまい、この子は100以上の数え方がまだよく分かっていないのでやめてしまうということもありました。

 この道徳的ギャップは何なのですかね。

(2018.11.01 黒崎剛)