第2話 埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景(その2)

・第2話「埼玉かデュッセルドルフかーー自然の風景・精神の風景(その1)」の続きです。

立派なドイツの集合住宅

 前回何が言いたかったのかというと、自然や植生に詳しくない私がラインを利根川だと思ってしまうのは、自然ではなく文化的なものの方が差異を認識しやすいという簡単な理由です。文化のような精神的存在がなければ、私のような人間は埼玉とドイツの都市の区別がつかなくなってしまうわけです。

 ドイツにいて感心するのは、住宅がまあ立派なこと。多くが集合住宅なのですが、日本のようにどんなにおしゃれにしてもその実態は無機質な箱型であるというのではなくて、煉瓦造りの家々は一軒一軒個性を持っていて、見飽きることがありません。そのうちの一軒がわが住居の近くにあるのですが、私は散歩に行くとよくその家の全景を眺めています。上の写真がそれです。

 ところで、ある日まことにそのようなドイツ的風景を楽しんでいると、うん?寺!?、寺ですよねこれは!

お寺のある北関東の光景?二つは10メートルと離れていない。

 というわけで突如として重厚なる古典的ヨーロッパ風景がなじみの北関東的光景に変わりました。何ものかと回って訪ねてみると、某「日本文化センター」が建てたお寺のようです。相当本格的で、「名刹」といった雰囲気です。こういう精神的存在があれば、一気にヨーロッパが日本になってしまうわけですね。

 こういうのを「精神」的存在というと誤解をまねくに違いないので、別な便利な言葉として「第二の自然」といってもいいでしょう。例えば日本人が愛する「里山」の環境。あれはヘーゲルの用語では自然的存在ではなくて、精神的存在です。天然自然には存在しないものが人間の自己意識的な努力によって実現しているわけですから。よく日本人は自然を愛する民族だなどと言われますが、あれもどうでしょうか。日本人が好きなのはこういう「第二の自然」であって、それは実は「精神的」なものです。

 私は、人間の手が加わらない自然という近代的概念を日本人は自覚で来ていないし、またそうした意味での自然に全く価値を置いていないように思えてなりません。そうでなければ、一方で「日本人は自然を愛する民族だ」などと言いながら、あれほどあっけらかんと自然破壊を続けることなどできるはずがないでしょう。そこにはなかなかの哲学的問題がありますので、またそのうちに。

 

第2話「埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景」おわり。