・第1話「黒い乗客と主体性(その2)」の続きです。
ライン河畔。
ドイツ語には「社会」にあたる言葉が二つあります。ゲマインシャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)です。前者は「共同体」、後者を「社会」と訳すとニュアンスが伝わるかもしれません。ゲマインシャフトは家族のような団体を指し、ゲゼルシャフトは、例えば近代の「市民社会」と言えばdie buergerliche Gesellschaftであって、決して die buergerliche Gemeinschaftとは言いません。つまりどうやら日本社会はゲゼルシャフトであるはずなのにゲマインシャフト的に運営され、ドイツを含む西欧社会ははるかにゲゼルシャフト的だと言えそうです。どちらがいいのかは言えないのではないかと思われるかもしれませんが、私は本来の意味で成熟した「社会」の在り方はゲマインシャフト的であるべきだと思っています。そういう意味では日本の方が本来の社会に似ているのですが、似ているのは形だけで、その社会性は近代という試練にまさにこれからも耐えなければならない原初的な共同性、これから先になってゲゼルシャフト的威力にさらされてどんどん解体されていく共同性です。その意味で日本はまだ真の社会ヘの出発点からそんなに遠くないところにとどまっていのだと言えます。西欧はそこから進んですでに共同体的性格をどんどん解体していって、最終的な共同体への通過地点としての市民社会にまですすんでいると言うことができましょう。これはまさに弁証法的過程ですね。
しかし私たち外国人は、ドイツにやってくると、こうした主体性文化に自分を合わせることを求められ、ぐずぐずしていると60ユーロの罰金をくらわされるわけです。そうはいっても私も慣れ親しんだ甘え文化からそう脱却できそうもありませんし、どうせすぐ帰るのだからということで、せいぜい「異文化交流」のレベルにとどまってもいいわけです。
しかしながら、このことは、現在ドイツで大問題になっている移民政策にもちょっとかかわっていて、そうなると話は異文化交流などという甘い関係ではすみません。もし私が1年間滞在ではなく、10年とか15年、あるいは永住するつもりで来ているのだとすればどうでしょう。私は日本の甘え文化を捨て、西欧流の主体性文化に同化することを迫られるでしょう。昔から「郷に入れば郷に従え」、When in Roma, do as the Romans do(ローマにいるなら、ローマ人のようにふるまえ)ということわざがあります。一般論としては誰もそれに反対しないでしょう。しかしここで、私がたとえドイツ人になったとしても、捨てたくない日本人としての魂がある、などと言い出したら、ドイツ人はどう思うでしょうか。
二通りの反応が考えられます。そういう態度を「一社会の中にいろいろな文化があるのは素敵だ」と許容する場合(多文化主義、Multikulturalismusと言っていい)と、「ドイツに来たからにはドイツのやり方に従うべきだ」という場合(統合Integrationを第一とする立場)です。思想的には、この対立が現在のドイツのやっかいのタネになっています。この問題を巡っても論争も起きました。Leitkultur Debat(先導文化論争)と言い、1990年代後半からいままで断続的に続いていて、終わるのかと見えたら再燃しなかなか収束する様子が見えません。これについて私はこの滞在中の研究課題に挙げているので、このHPのどこかで考察することにして、最初の無知話はここまで。
いやあ~、いきなりこんなパンチを食らって、いいレッスンだったと思います。自分が研究課題としてもっていったことを身をもって体験できたわけですから。でもレッスン料は高すぎましたね。
第1話「黒い乗客と主体性」おわり。