第1話 黒い乗客と主体性(その2)

・第1話「黒い乗客と主体性(その1)」の続きです。

罰金60ユーロの警告文。約7800円。

 二度目は私の在外研究受け入れ機関であるルール大学へはじめて行く途中でのこと。ルール大学はボーフム中央駅から乗り換えていくのですが、ここで私は間違えてルール大学と反対方向へ乗っていました。そこで検察に見つかり、逆ですよと注意される。そこまではダンケシェーン(ありがとございま~す)なのですが、切符を調べられたところ、これはダメだといわれました。切符はネットで買っていたのですが、ボーフム中央駅までしか有効ではないもので、それから先は切符を買い足さなければならない。つまり東京駅まで有効だが、23区内には行けないといったような切符を私は買っていたわけですね。ところが今度の検察はなかなか物腰が柔らかく、いろいろ説明してくれた上で、ドイツ鉄道にメールを出せという。なんだ、なかなか親切じゃないかと思っていたらそうではなくて、今回はパスポートを持っていて(前回は所持していなかった)それを提示したので、正体をつかまれていて、逃げられる心配がないわけです。それで即罰金とはならなかったらしい。そこで言われたとおり後でメールを出すと、返事が郵便で来て、けしからんやつだが、我々の特別の「好意をもって」、30ユーロにまけてやろう、という内容でした。払うときに10ユーロも手数料を取られたので、結局ひと月の間に100ユーロを払ったことになります。合計約1万3000円でした。

 これがドイツに来ての最初の衝撃でした。あほですか、という声が聞こえてきますね。実際そこでようやくググってみますと、この検札についてはあちこちで注意喚起されていますので、私の無知ぶりが際立つ事件となりました。でも、そのおかげで実感をもって体験できたのが、日本とドイツ(というより西ヨーロッパ)の基本的な「哲学」あるいは、根底的な「文化」のあり方の違いというべきもの――「主体性」の違いです。

 日本の鉄道ではこんなことはおきません。なぜなら間違いが起きるのを未然に防ぐという無意識の思想があるからです。まず切符を買わないでホームに行くことができません。私はこれまでそれは無賃乗車を防ぐシステムだとばかり思っていましたが、ドイツ流と比較すると、「罰金を払わなければならないような間違いをあらかじめ防ぐのだよいことだ」という哲学が暗黙のうちに含まれていることがわかります。さらに電車に乗った後でも、切符をもっていなかったり、料金が足りなかったりしても罰金を払わせるという発想がありません。ただ不足分を徴収されるだけですし、わたしたちはそれを見越して電車の中で切符を買おうと思って乗るということさえできます。(ただしドイツでも車内に自動販売機が設置されています。とはいえ検札が来た時点で買っていなければ、問答無用で罰金です。)ドイツ、正確に言えば、フランスも大体にような制度だそうですから、西ヨーロッパの発想はまるで違います。あくまでも自己責任なのです。日本のやり方は、イメージとしては母親が子供をくるむように保護するという発想ですが、西欧のやり方は各人の主体性に任せて、失敗したら責任を取らせるという哲学です。よく言われるように日本は「甘え」を許し、西欧はそれを排斥します。西欧のやり方で各人に求められているのは「主体性」です。何事も各個人の自発性、倫理性に基づいて行われることが社会に生きる個人のあり方だという近代の思想が制度化されています。日本のやり方は、主体性を個人に求めるのではなく、社会全体がそれを体現すればいいという発想です。西欧の個人主義と日本の社会主義(政治制度としてのそれではない)がよくあらわされています。

(つづく)

*続きはこちら→・第1話「黒い乗客と主体性(その3)」