第2話 埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景(その1)

埼玉でしょうか?いいえドイツのお屋敷町

 ドイツの住居に来て電車にのり、車窓の風景を眺めていたところ、なんだか見たことあるなあという景色にしばしば出会いました。その風景が埼玉(私の故郷)や群馬(家人の実家)にそっくりであることにまもなく気づきました。というのも、ドイツの都市はどこも日本の都会と違って緑が多いので、車窓の風景はたいてい林、森、畑といったところなのですが、畑を田んぼと見立てれば、もうそれはそのまま埼玉の田舎的光景になるわけです。かのラインの流れるところが埼玉とはなんだ、と思われる方もいるかもしれないので、証拠写真も冒頭に挙げておきましょう。これは一軒家が立ち並ぶ、セレブ達が住まいする、ドイツのあるお屋敷町の光景で、埼玉の田園ではありません。

 それはライン河畔を歩いているときもそうで、「これはどこかで見たことあるなあ…」と思っていてまたはっと気がつきました。これはわが故郷を流れる利根川の光景ではないか。するとデュッセルドルフはドイツの埼玉なのか。

 しかし、そんなことを考えていた時に、油断していたら目の前に羊の群れです!埼玉には羊はいない(たぶん)。これはやはり異国の光景だと感じ入っていたところ、羊の群れが移動し、やがてライン川をはさんで向こう岸に「旧市街」とよばれるところを背景にしました。なんと見事な…ここはまさしくヨーロッパですね。もはや利根川の面影はありません。(もちろん利根川の光景もいいものですよ。)

ライン河畔

 実は車窓の光景の場合も同じことが起こっていて、窓の外にいかにも朱の煉瓦でできた家が見え始めると、途端にドイツになります。これはこの間フィンランドに行った時も同じことを経験しました。タンペレというフィンランド第二の都市だというのですが、行く途中の車窓はまさに埼玉・群馬・茨城がいっぱいでした。しかしそこかしこにムーミンにでてくるような明るい黄色や朱色の箱のような家がでてくると、ここは北欧なんだなあという感慨ががぜん湧いてきます。

 こう書くと、いかにも私が自然に関心がない人間であるかのように思える。実際そうなのですが、しかし実はヘーゲルもそんなことを言っています。自然というものはそれ自体では何物でもなく、「精神」の契機となって意味を持つのだと。

 ヘーゲルのこの発想は典型的な近代主義のようですが、そうでたらめでもありません。というのも人間の精神はそもそも精神的なものに強く反応するからです。自然に反応するのは実は相当文化的な訓練を積んだ人、自然というものに対して自覚的に向き合っている人たちだけです。たいていの人は、自然だと思って「精神」的存在に反応しているのです。この場合ヘーゲル的な意味での「精神」というのは、心の在り方という観念的なことではなくて、人間が自然を加工してつくりあげた一切のものを指すと言っておけばいいでしょう。ヘーゲルのいう意味では目の前にあるお饅頭一個も「精神」の現れです。これに対して自然そのものというのは近代になって初めて人間が自覚した存在で、「客観的なもの」を自分の主観性に対する存在だと意識できるようになって初めて理解できる存在です。だから例えば日本人は明治になって「登山」という概念と習慣が輸入されるまで、「山」を一顧の自然とみて、そこで楽しもうなどという発想がなく、山は生活の場であり、信仰の対象でしなかったわけです。

(続く)

*続きはこちら→第二話 埼玉かデュッセルドルフか――自然の風景・精神の風景(その2)