ヘーゲル哲学への誘い

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ヘーゲル哲学とは――人間の自己矛盾の必然性を捉えながら、その全体性の回復を試みる哲学

まずヘーゲルです。いま、ヘーゲル哲学を読む意義があるのか、と問われたなら、私は「あるどころではなく、ヘーゲル哲学こそ、21世紀に読むべきほとんど唯一の哲学なのだ」とためらいなく答えます。その理由を理論的に表現すれば、それは「個別性と普遍性とを統一するという課題に対して、哲学史上もっとも見事な解答を与えたから」ということであり、実践的に表現すれば、それは「人間の自己矛盾――個別性と普遍性との敵対的対立――を捉えながら、そのなかに全体性の回復を捉えたから」だということになるでしょう。

第一に、ヘーゲルは「個別的なものと普遍的なもの」との対立をいかに統一するのかという問題を徹底的に問い詰めた哲学者であるということです。この課題は一人ヘーゲルに独自のものであったのではなく、西洋哲学の課題そのものだということに注意してください。プラトンもアリストテレスも、カントもニーチェも、ハイデガーもルカーチも、現象学も実存主義も、総じて哲学というものは、この問いの周りを回り、解答を与えようとする試みだと言っていいのです。

いまは分かりやすくするために、この問題を「個人と社会との関係」に限定してイメージを作ってみましょう。現代は個人という存在に権利と価値を認める時代ですが、個人が社会との関係を離れて、それ自体で存在するはずがありません。個人と社会との関係で言えば、社会こそ私たち個人を生かしてくれている普遍的な存在であるはずです。

ところが、これまでの多くの良心的な哲学者たち、たとえばフランクフルト学派などはヨーロッパ社会が20世紀前半に生み出した政治的全体主義(ファシズム)の反省から、全体性の優位をただちに「虚偽」として拒否せざるを得ませんでしたし、実存主義者や実証主義者は個別的なもの、個人的なものこそ全体以上に真実の存在なのだと主張しました。ところが、全体性を拒否すればするほど、そうした理論は全体性に囚われることになってします。個別的なものの価値を強調すればするほど、その個別を支える全体の価値が再認識されざるを得ませんし、個人が全体的な関係性である社会によって生かされているというのはあまりに自明なことです。「個別性が真理である」という主張はただちに「全体性が真理である」という主張にひっくり返ってしまいます。しかし、全体性を主張すれば、個別的・特殊的なものの権利は失われてしまいます。どちらかが他方に対して真理であるということを主張すると、どちらもただちに反論に会い、ただちに相互転倒してしまうのです。

ヘーゲルはこの個別性と全体性(普遍性)の相互転倒そのものを人間存在の宿命と考え、それを論理化することに成功した哲学者です。二十世紀の哲学者たちはこの問題にいまだに解答することができず、個別性か普遍性か、個人か全体かのどちらかに与するか、あるいはそれが不満な場合でも、両者の「相互関係」を言うか、どれかのかたちでしか回答できませんでした。結果として、二十世紀において、コンテンポラリーな理論が行き詰まると、人々の念頭には何度でもヘーゲル哲学が思い出され、その価値を再考して見ざるをえないことになるわけです。これが思想界において「ヘーゲル・ルネサンス」が繰り返し起こる理由です。

しかし第二に、ヘーゲルは単純に普遍的なものの優位を説いた全体主義哲学者ではなかったということが重要です。つまり、ヘーゲル哲学は「人間」が個別性と普遍性の対立をリアルに生み出してしまうこと、それ自身が自己矛盾した存在であるということを理解するための論理を提供したほとんど唯一の哲学なのです。

では、人間が「自己矛盾」した存在であるということは、どういうことでしょうか。

理論家がよくやる間違いは、人間を「受動的存在」だと考えてしまうことです。例えば認識においては、外からやってくる内容を受け取るだけ、実践においては個人は社会によって影響を受け、規定されるだけ、生物としては遺伝子によって個々の行動まで規制されるだけ、といったように。ところが人間は自分の実践的存在です。みずからの活動によって、自己の主観的目的を外の世界に対象化して、客観的な存在として現実化できるのです。しかもこの能力は全面的で、人間は全自然を対象化し、それを素材として、自己の本質をすべて対象化できるのです。

ところで、人間のこの実践的能力こそ、人間存在の根本的矛盾――すなわち個別性と普遍性との分裂――の根拠となります。なぜなら、そこにおいては「自己が他者として存在する」という事態が生まれているからです。つまり、人間は自分が抱いた主観的な目的を自分の労働を通じて対象として現実的な存在として自分から区別することができるのですが、この自己から区別された自己が、自己に対してよそよそしい「他者」として対立的な存在となるとき、潜在的にあった人間の自己矛盾はあらわになります。これは近代社会のことを考えればよく分かるでしょう。社会とは人間が自分たちの活動を通して日々生み出しているものですが、人間の作り出しているこの社会が個々の人間を抑圧するシステムになっているのが近代です。

しかし人間はこの自己の普遍性と個別性との分裂、自己矛盾を克服していくことを通して、単なる個別的存在にすぎなかった自己を鍛え、普遍的な存在に高めていくことができるのです。そしてそれとともに、普遍性あるいは全体性というものが、人間を抑圧するシステムとしてではなく、人間を生かしてくれる世界として存在しうるようになることを期待できるのです。

ヘーゲルはこの人間が自己を鍛える発展の論理をつかんだ。つまり、自己矛盾を産出し、かつ解消しながら発展していくという「主体」の論理をつかんだのです。この自己矛盾を彼は「自己疎外」と呼びました。こうした自己疎外を通じて自己の普遍性を鍛えていく人間存在そのものを捉えることのできる論理、それがヘーゲルの言った「思弁的方法」であり、後世の人間、特にマルクス主義者が「弁証法」と呼んだ論理です。

つまり、弁証法とは人間が自分の自己矛盾を経験しながら、全体性を回復する道筋をしめす論理なのです。人間は矛盾のなかで没落するにすぎない存在ではなく、むしろそれによって個別的なものと普遍的=全体的なものとの対立を超え、常により高次の統一を生み出すことのできる存在であること、これを捉えることができたのが、ヘーゲル哲学なのです。その点で、人間というこの自己矛盾した存在を捉えたいという思いのある人ならば、ヘーゲルの鍛えたこの「思弁的論理」は、一度は学んでみる価値のあるものだと断言できるわけです。

 

現代社会を理解したい人のための論理

さて、以上のことからも察せられると思いますが、私がヘーゲル哲学をお勧めする大きな理由は、まさにそれが近代社会(つまり現在の社会のこと)を理解するために欠かすことのできないものだからです。

近代社会(いま現在の社会も近代社会です)とは、誰もが認めている通り、「資本主義社会」です。資本主義社会とは、人間が自分たちの社会的労働の成果を「資本」という自分たち自身に対立するものとして作り出している社会、言いかえれば普遍性と個別性との分裂が人間諸個人と資本との敵対的対立(近代的人間の自己疎外)として現象している社会です。つまり、近代資本主義社会とは、人間という存在が潜在的に抱えている自己矛盾が現実化し、自己疎外というかたちではっきりと人間社会の存在性格として完成している社会なのです。だからこそ、この近代社会を理論的に捉えるには、人間の自己矛盾と捉えることのできる特別な論理的能力が必要であり、その能力を鍛えてくれるものがヘーゲルの思弁的方法、いわゆる「弁証法的論理」なのです。なぜなら、ヘーゲルがそもそもその思弁的方法を鍛えることができたのは、彼が近代社会の幕開けの時に生き、顕現しはじめた人間の自己矛盾を洞察することができたからです。弁証法的論理とは、近代社会の考察において、その真価を発揮する論理だというわけです。